東莱博議

  莫傲屈瑕
   (莫傲は官職名。楚では宰相を「令尹」その次席を「莫傲」と称する。)

(春秋左氏伝)

 魯の桓公の十一年。楚の莫傲(正しくは、人扁がない。)屈瑕が貳・軫と盟約を交わそうとしていると、員(「員/里」)の軍が蒲騒に陣取って、随・絞・州・蓼の軍と共に楚を攻撃しようとした。屈瑕がこれを憂えていると、闘廉が言った。
「員の連中は、四カ国の援軍を頼みとしており、戦う意欲がありません。卿は呈郊に陣取って、四カ国の連合軍を防いで下さい。その間に私は精鋭を率いて員に夜襲をかけます。そうやって員軍を撃破すれば、四邑は散り散りになるでしょう。」
 屈瑕は言った。
「国王へ知らせて援軍を頼むべきではないかな?」
「戦争の勝敗は人の和にかかっており、兵卒の衆寡ではありません。大軍を率いる殷の紂王が、少数の周の武王軍に敗北したことでもお判りでしょう。それに、我等は既に先鋒として出陣しているのに、戦いもせずに援軍を頼むのでは、その役目を果たしたとは言えません。」
「ではトで占ってみよう。」
「占いは疑念を解くために行うもの。今回は作戦が明白なのに、何で占う必要がありますか。」
 そこで、屈瑕は戦いを挑み、員軍を蹴散らした。そして予定通り貳・軫の二カ国と会盟してから本国に凱旋した。

 十二年、楚が絞を攻撃し、邑城の南に陣取った。
 屈瑕は言った。
「絞には軽率な人間が多い。奴等は深い謀略を巡らさないし、すぐに図に乗る。そこで護衛無しで人夫に薪を取りに行かせ、誘ってみよう。」
 この作戦が実行され、絞軍は三十人程の人夫を捕虜にした。彼等は図に乗り、楚の人夫を捕まえて手柄にしようと、翌日には争って城を出、山中で人夫達を追いかけまわした。楚軍は北門に陣を布き、麓に伏兵を置いて、絞軍を大いに破った。
 城下の誓いを交わさせて、屈瑕は凱旋した。

 十三年、屈瑕は羅を討伐に出た。その出陣を見送った闘伯比は、御者へ言った。
「歩みぶりが高い。心が浮ついている証拠だ。莫傲は必ず敗れる。」
 そこで、城へ帰って国王へ言った。
「増援軍をお願いします。」
 しかし、楚王はこれを却下した。
 楚王が後宮にて婦人の登(「登/里」)曼へこの話をすると、登曼は言った。
「それは兵卒を増やすことではありますまい。莫傲は蒲騒の役の戦勝で気を緩め、自分勝手に裁量したがっております。必ず羅を弱国と侮りましょう。どうか我が君、使者を派遣して莫傲の心を戒めて下さい。それが闘伯比の申す『増援軍』でございます。それでなければ、莫傲は軍備もしないで敗れてしまいましょう。」
 楚王は使者を派遣したが、間に合わなかった。
 さて、屈瑕は軍中でおふれを出した。
「意見じみたことを言う奴は、斬る!」
 羅への途中渡河をしたが、それで陣はバラバラになってしまった。しかし、屈瑕は軍の再編成もせずに、全く無秩序なまま羅へ到着した。廬戎と手を組んで楚の軍を待ち受けていた羅軍がこれに襲いかかったので、楚軍は壊滅的な打撃を受け、屈瑕は自殺した。

(博議)

 ある楚人が、舟の操縦を習った。
 最初は訳が分からず、直進も曲がるも、スピードを上げるも徐行するも、全て先生の言うままに従った。
 帆を開き楫を動かすと、舟は飛ぶように駆けて行く。雲を追い抜き鳥と競い、一息に千里を走る。まだ舟を操ることができないとはいえ、その面白さは十分に満喫したのである。
 面白くなってみると、自分で自由に操縦してみたくて我慢できない。だが、自信がなかったので、洲渚にて、ちょっと試してみた。
 鑑のように滑らかな水面に舟を操る。右へ向かおうとすれば右、左へ向かおうとすれば左。速きも遅きも自由自在。たまたま天候が良かったことも知らず、操舟の極意を体得したと思いこんでしまった。
 そこで先生を断り、傲然として一人で舟に乗り込んだ。大海を、まるで沼のように思い、江湖を杯と嘲り、稚屈な技の身の程も知らず、難所へ向かって舟を出す。
 ああ、大海の中で天候激しい時は、先日の渚とどれ程違ったことだろう。波は天を衝かんばかりに盛り上がって太陽さえも隠してしまい、大風は大木どころか山でさえもなぎ倒さんばかり。引き潮は鯨を引き込み蛟龍を驚かす。男は魂を消し飛ばし、手足も思うままに動かせず、どうして良いか判らないままに帆を落とし、楫を失う。遂に、その身は魚や亀の腹を肥やして、世間の人々の戒めとなってしまった。
 今日の危機は、実に先日の幸運が招いたのである。もしも彼が、最初に試みた時に風濤の変に遭ったならば、身を以てその恐ろしさを知り、命尽きるまで、舟を操ろうとは言い出さなかったものを。
 不幸なことに、屈瑕の禍はこの類なのである。

 員の軍を防ぐ時に当たって、軍略の拙さを自ら知っていた屈瑕は、計略を闘廉へ委ねた。
 呈に陣を布いて四邑を防ぐよう教えたのは闘廉である。精鋭を率いて員を夜襲するよう教えたのも闘廉である。戦争は数ではないと教えたのも、決断すれば占いは不要だと教えたのも、全て闘廉だった。
 屈瑕は、大となく小となく、全て闘廉から教えて貰った。これは、舟を習い始めた人が、一から十まで先生の言う儘に操るのと同じである。
 ここで奇策を操る効果を目の当たりに見た屈瑕は、密かに自分で試してみたくなった。絞を攻撃した時は、言ってみるなら渚で試したようなもの。そして幸運にも、絞の人間はその策略に陥ってしまった。
 僥倖の成功を実力と勘違いした屈瑕は、たちまち志が満ち、意気が揚がり、自らこう思った。
「わが神算に遺漏なし。天下に兵を扱う者は数居るが、我が右に出る者は一人も居ない。」
 かくして規則を凡人のものと嘲り、煩わしい手順を愚かしいと省き去り、心の赴くままに直進した。だが、豈図らんや、敵の計略はこちらの思わざる所に出、軍は敗れて身躓く。その禍を得た理由は、先程舟を操った者と全く変わらないのだ。
 登曼は、その禍端を推して、これを「蒲騒の役」のせいだと言った。だが、私はそうは思わない。屈瑕の禍を形作ったのは「絞の役」である。
 絞を討つ時、屈瑕は、自分の計略を使いたかったが、まだ自信がなかった。ここでもしも頓挫すれば、必ずこう言うだろう。
「昔は人の言う通りに従ったから勝ち、今回は自分の思うままに行ったから負けた。」と。
 そうすれば、自分の能力の至らなさを思い、戯れの戦争など敢えて行わなくなっただろう。
 だが、実際には勝ってしまった。計略が巧く行ったのは僥倖なのに、そうとは思わず自分の才能を誇り、心に思うばかりか自慢げに吹聴したに違いない。
「かつて蒲騒で勝てたのは闘廉のおかげだったかもしれないが、今、樵人夫を使って敵を誘い出したのは俺が自分で編み出した。闘廉に教えて貰ったわけではない。」
 こうして、自分勝手に裁量しようとゆう思いは益々固くなり、結局自殺することとなってしまったのだ。
 屈瑕の死生は、絞を討つ時の勝敗にあった。
 まず彼を驕らせて、次いでこれを陥れる。ああ、天は何と陰険な罠を張って、彼を陥れたことだろうか。

 前秦の苻堅も同様である。
 彼が前秦を治めた時、一にも王猛、二にも王猛と言っていた。王猛無が死んだ時、彼は詔を二回も下した。
「丞相が死んだばかりであるから、聴訴観を置き、民の訴訟を自ら聴こう。」
「地方へ役人を巡回させ、民の疾苦を調べさせる。」
 その詔の言葉のなんと兢々としていたことか。
 だが、やがて前涼を滅ぼし、西域を征服した。それらの勝報が相継いで届けられるに及んで、彼の心も驕り始めた。
 彼はきっとこう思ったのだ。
゛天下を治めるなど、こんなものだ。王猛はいないが、なに、俺一人でも充分やって行けるではないか。゛
 そして自ら討伐に出向くに及んで、肥水の敗戦を喫したのである。
 もしも王猛が死んだ直後に、ちょっとした敗戦を経験していれば、こんなに簡単に天下を軽視することはなかっただろう。
 苻堅が国を失ったのも、屈瑕が軍隊を失ったのと同様なのだ。

 凡そ、天子から庶民に至るまで、厳しい師匠から解放された時には、心が驕って勝手気儘にやってみたいと思うものだ。だが、この時、簡単なことに遭っても喜ぶに足りない。そして、艱難に遭っても憂うる必要はないのだ。
 最初に簡単なことに遭ったなら、簡単なことが当たり前だと思ってしまう。これは禍の源である。最初に艱難に遭ったならば、難しいのが普通なのだと思ってしまう。これは福の源である。
 世の中には、一勝した為に、却って一国を失う者もいる。一能によって一身をそこなう者もいる。ああ、全く畏るべきことである。