武帝年代記
 
  

  

 永明元年、(483年)三月。天文官が、不吉な象を見たので、お祓いをしたいと申し出た。すると、武帝は言った。
「天は、実体に応じるので、虚飾に応じるのではない。我が克己して善政を行い、民への恵みを心がけよう。もしも我が身へ禍が降りるとゆうのなら、お祓いなどする必要はない!」 

 四月、詔を出した。
「袁粲、劉乗、沈悠之は晩節をこそ汚したが、その前半生は手本とするべきである。」
 そして、礼を以て改葬するよう命じた。 

 十月、驍騎将軍の劉纉を使者として魏へ派遣した。魏では、主客令の李安世がこれを接待した。この時、魏人は内藏から宝物を出して、斉の物品と交易しようとした。そこで、劉纉は言った。
「魏では金や玉がたいそう安いようですな。埋蔵する山や川が多いのでしょうね。」
 すると、李安民は言った。
「聖朝では金玉を貴ばないので、瓦礫のように安くなったのです。」
 劉纉は、もともと小遣い稼ぎに交易して行こうと思っていたが、その返答を聞いて恥じ入ってしまい、これを止めた。
 劉纉は、屡々使者として魏へ赴き、馮太后と密通した。
(訳者、曰く)
 南朝の方が文化が進んでいたのだろうか?それならば、ちょっとした品物を野蛮な地方へ持ち込んで大金と交換できるわけだ。魏人が内藏から金玉を持ち出したところを見ると、大使が仕事の合間に交易して小遣いを稼ぐとゆう事も、一般に行われていたのだろう。 

 二年、十月。南徐州刺史の長沙王晃が中書監となった。
 かつて、太祖が崩御する時、晃を輦下か、せめて近隣の藩の王とするよう武帝へ命じ、かつ、諭した。
「もしも、宋氏が骨肉の争いをしなければ、どうして我等が簒奪できただろうか。これを深く戒めとせよ!」
 もともとの制度では、諸王は都にいる時には、刀を持った従者は四十人しか率いてはならないと定められていた。ところが、長沙王晃は武張ったことを好み、南徐州から戻ってくる時、数百人の武装兵を引き連れていた。そして禁司から咎められると、彼等を揚子江へ投げ落としてしまった。
 これを聞いて武帝は激怒し、法に照らし合わせて糾明するよう命じた。すると、豫章王嶷が土下座し、涙ながらに言った。
「晃の罪状は、どう言い逃れもできません。ですが、どうか陛下、先代が晃を気にかけていた事を思い出されてくださいませ。」
 それを見て、武帝も涙を零し、この件は沙汰止みとなったが、以後、長沙王晃は親任されなくなった。 

 益州の大度僚は、険阻な地形を恃んで驕慢放埒になっていたが、それまでの益州刺史は、彼の横暴を制止できなかった。
 やがて、陳顕達が刺史となると、彼の許へ使者を派遣し、それまでの租税を納めるように申しつけた。すると、大度僚は言った。
「今までの刺史達は、五体満足な男だったが、それでも我を支配下に置こうとはしなかったのだ。ましてやあいつは片目じゃないか!」
 そして、使者を殺してしまった。
 そこで陳顕達は、狩猟を名目にして将吏を率いて出かけ、夜半、大度僚を襲撃し、老若男女の区別なく殺し尽くした。
 東晋以来、南朝では益州刺史に必ず名将を抜擢していた。
 十一月、武帝は始興王鑑を都督益・寧諸軍事、益州刺史に任命し、陳顕達を中護軍として都へ呼び戻した。
 話は遡るが、劫帥の韓武方が千余人の部下をかき集めて、川を根城にして狼藉の限りを尽くしており、郡太守や県令では手が出せなかった事があった。この時、始興王鑑が討伐に出かけると、上明や武方の賊徒達が降伏してきた。長史の虞宗は皆殺しとするよう進言したが、始興王鑑は言った。
「殺したら、信義がなくなる。それに、これから降伏してくる者がいなくなるではないか。」
 そして、彼等の罪を赦したので、巴西の蛮夷達は次々と降伏してきた。
 さて、今回、始興王鑑は十四才。彼が新城まで行くと、巷では噂が流れていた。
「陳顕達は、選りすぐった馬や士卒を持っているのだ。なんでオメオメと都へ戻ったりするものかね。ここで王となるに決まっている。」
 そこで、始興王鑑は新城に留まって、まず、使者を派遣して陳顕達の様子を探らせた。そんな折り、陳顕達の使者がやって来た。始興王の部下の中には、「捕まえましょう」と言う者も居たが、始興王鑑は言った。
「陳顕達は、本朝の為に活躍した武将だ。そんなことはできない。」
 二日経つと、使者が戻って来て言った。
「陳顕達は既に家を出て、殿下のご到着を心待ちにしております。」
 そこで、始興王鑑は前進した。
 始興王鑑は文学を喜び、服装や用度品に贅沢をしなかったので、蜀の人々は悦んだ。
 陳顕達は、一介の兵卒から出世した人間で、位が上がる度に兢々としていた。子息達へは、「富貴を鼻にかけて、他人を見下してはいけない。」と常々教えていた。ところが、子供達は次第に豪奢になっていった。陳顕達は、これを聞いて悦ばなかった。
 子息の陳休尚が地方の主簿となって出向する時、その荷物を見て、陳顕達は言った。
「どれもこれも、謝氏や王氏が使いそうな物ばかり。お前が使うものではない!」
 そして、特に豪奢な物は焼き払ってしまった。 

 三年、国学の復立を詔した。
 もともと、宋の大層が総明観を置いて学士を集めていたが、今回、これを閉鎖した。そして、国子祭酒の王倹の邸宅を学士館とし、総明観の書籍をここへ移した。又、王倹の家を府とするよう詔した。
 宋の世祖は文章を好んでいたので、それ以来、南朝の士大夫は文章ばかり勉強するようになり、経典を専属に研究する学者が居なくなっていた。だが、王倹は幼い頃から「礼記」を好み、「春秋」を学んでいた。彼の言論は儒教を基盤としていたので、国を挙げて儒教を尚ぶようになった。
 王倹は、宋以来の朝儀や国典も編纂した。晋、宋以来の故事は全て暗記していたので、朝理事についても、流れるように決裁した。その時には過去の故事を引き合いに出して典拠としたので、八座も丞も郎も、誰一人反駁できなかった。
 常に、人に言っていた。
「江左で風流宰相といえば、謝安ただ一人だけだ。」
 これは、自分を謝安に比べていたのだ。武帝は彼を深く親任し、彼の人事は全て採用された。 

 永明四年(468年)、造反人の唐寓之が、銭唐を攻撃し、落とした。
 呉郡の諸県令の多くは、城を棄てて逃げた。唐寓之は、銭唐にて皇帝を潜称し、皇太子を立てて百官を設置した。
 更に、高道度等に東陽を攻略させた。東陽太守の蕭祟之を殺す。蕭祟之は、太祖の族弟である。
 又、孫泓に山陰を攻撃させた。彼は、浦陽江まで進軍したが、ここで反撃を受けて撃破された。
 武帝は、禁兵数千人と馬数百匹を動員し、唐寓之を攻撃させた。 
 唐寓之の部下は、所詮、烏合の衆である。台軍が銭唐まで進軍すると、彼等は起兵を畏れ、一戦で壊滅した。唐寓之を捕え、斬る。台軍は、更に進撃して諸郡県を平定した。
 台軍は、勝ちに乗じて略奪を行った。それを知った武帝は、彼等が都へ帰ると、軍主の前軍将軍陳天福を捕らえ、市場でさらし首とした。左軍将軍劉明徹は免官、爵位剥奪の上、東冶に軟禁した。
 ところで、陳天福は武帝の寵将だった。その彼が誅殺されてしまったので、内外は震え上がって粛然とした。 

 八年、会稽太守安陸侯緬をヨウ州刺史とした。
 安陸侯緬は、裁判に心を配っていた。些細な盗みなどは改心することを願って、皆、釈放してやった。しかし、再度犯すと、必ず誅した。民は、彼のことを畏れながらも愛した。 

 七月、河南王度易侯が卒した。そこで、彼の世子の伏連寿を秦・河二州刺史として、振武将軍丘冠先を派遣して辞令を渡すと共に弔いをさせた。
 この時、伏連寿は、丘冠先へ拝礼するよう命じたが、丘冠先はこれを拒否した。すると、伏連寿は丘冠先を崖から突き落として殺した。
 武帝は、伏連寿の息子の雄へ厚く報いたが、伏連寿の土地が遠方にあるので、この事件は究明せず、伏連寿へも今まで通りの待遇を変えなかった。 

 交州刺史房法乗は、読書好きな人間。いつも本ばかり読んで、政治向きのことは殆ど行わない。それで、州内の事は、長史の伏登之が専断したが、遂には、州内の将吏の人事まで独断で行い、房法乗には一切報告もしないようになった。録事の房季文がその実体を密告すると、房法乗は激怒し、伏登之を十日余りも投獄した。
 伏登之は、房法乗の妹婿へ厚く贈賄してようやく釈放されたが、出獄すると、彼はすぐに手勢を率いて州を襲撃し、房法乗を捕らえ、言った。
「君は病気です。煩雑なことを行うのは良くありません。」
 そして、別室に軟禁した。
 房法乗は、命が助かると、書を求めたが、伏登之は言った。
「安静にしていても、疾が重くなるかもしれないのだ。読書なんかとんでもない!」
 朝廷へ対しては、房法乗が重病で政務が見れないと報告した。
 十一月、伏登之は正式に交州刺史に任命された。房法乗は、都へ帰る途中、大ユ嶺で卒した。 

 西晋時代、張裴と杜預が律の注釈三十巻を大成した。これは、泰始年間から使用されていたが、簡約過ぎて、しかも、一章の中で両人の意見が食い違って正反対の判決が出ている場所もあった。だから、その時々の状況に応じて官吏が都合のいい解釈をして、奸悪を働くことが容易だった。
 武帝は、獄訟には特に気を配っていたので、尚書刪定郎の王植に、編集し直させ、公卿や八座参議や、意陵王子良にその事を任せていた。八年、この書が完成した。 

 永明十年(492年)、武帝は太子家令の沈約に宋書の編集を命じた。袁粲伝を立てる時、沈約は、どのように描写すれば良いか迷い、武帝へ尋ねた。すると、武帝は答えた。
「袁粲は宋室の忠臣である。」
 また、沈約は宋の世祖や太宗の不徳について、数多く記載していた。すると、武帝は言った。
「孝武帝については、まあ、置いておこう。しかし、我は長い間明帝に仕えていたのだ。卿は、『自分の主人の悪行を口にしない』とゆう言葉を知っているだろうに。」
 そして、かなりの部分を削除した。 

 十一年、ヨウ州刺史王換は、寧蛮長史の劉興祖を憎み、投獄した。そして、朝廷へ対しては、「劉興祖が、山蛮を煽動して造反しようとしていました。」と報告した。
 武帝は、劉興祖を建康へ護送するよう勅書を出したが、王換はでっち上げの暴露を懼れて獄中にて殺し、「獄中で首をくくりました」と報告した。
 武帝は大いに怒り、中書舎人の呂文顕と直閣将軍曹道剛へ五百の兵を与えて、王換を捕らえてくるよう命じた。
 ところで、王換の息子の王彪は乱暴者で、王換も手を焼いていた。又、王換の娘婿の殷叡は王換へ言った。
「曹、呂の二人が来ましたが、勅書を見せておりません。これは、陛下の意向ではないのかも知れませんぞ。」
 王換もそれに同意した。すると、王彪は府兵千人を出動させ、城門を閉じて守った。
 王換の門生の鄭羽は、台使を迎え入れるよう土下座して頼んだが、王換は言った。
「我は反逆したわけではないのに、呂・曹の若造達が、自分の手柄の為に我等を攻撃しようとしている。だから、城門を閉じて守るのだ。」
 王彪は遂に出撃したが、敗北して城へ逃げ帰った。
 三月、司馬の黄瑶起と寧蛮長史の裴叔業が城内で起兵して、王換を攻撃して斬り殺した。子息の王彪、弟の王爽、王弼や殷叡も捕らえられ、誅に伏した。王彪の兄の王融と王深は、建康で殺された。ただ、王深の弟の秘書丞王粛だけは、魏へ亡命することができた。後、王粛は孝文帝から気に入られ、魏で大出世し、南朝へ攻め込んだ。 

 十一年、皇太子懋が卒した。太子は温厚な人柄だった。武帝は、晩年になると遊宴を好み、政治向きのことは太子に任せていた。それ故、皇太子の威令は、内外に響いていた。
 皇太子は、豪奢な性格で、堂殿や庭園は皇帝の宮殿よりも立派だった。武帝は厳格な性格で、世間へ対する情報源は沢山持っていたが、この件に関して皇太子を密告する者は一人も居なかった。
 ある時、武帝は太子の東田を行き過ぎた時、その壮麗なのを見て激怒し、監作主師を投獄しようとした。この時、太子は彼等を匿ったので、武帝から酷く叱責された。
 太子が卒するに及んで、武帝は自ら東宮へ出向いたが、そこで始めて大使の使っていた器財や服を目にして激怒し、これらを全て壊させた。これらのことを今まで隠していたとして、皇太子と仲が善かった意陵王子良まで責められてしまった。
 皇太子は、もともと西昌侯鸞と仲が悪かった。かつて、彼は意陵王子良へ言った。
「あいつは何故か気にいらん。だが、そんな理由で解任するのではない。あいつは不運な奴だから解任するのだ。」
 子良は、西昌侯鸞の事をとりなした。(後、西昌侯鸞が即位すると(明帝)、太子の子孫は皆殺しになった。)
 四月、懋の子息の南郡王昭業を皇太孫に立て、東宮の官属をそのまま太孫の官属とした。