第二十回 馬首を迎えて孫延齢は命を落とし、

     ト亀を行って呉三桂は意気消沈する

 

 清朝廷は呉三桂への対策を速やかに行った。これを知って呉三桂は側近達へ言った。
「蔡敏栄か。あらかた察しは付いていた。朕の挙兵した途端あちこちで呼応し、更に孫、尚の二王まで帰参した。これを見た北朝は誰を信じて良いか判らなくなったのだ。ただ、蔡敏栄だけは俺を仇と怨んでいたからな。その蔡敏栄が大将となり、後詰めは図海。これは総力戦ではないか。蔡敏栄も図海も歴戦の名将。馬鹿にできん。両広を鎮圧したら、朕自らが蔡敏栄を撃破しよう。蔡敏栄を倒せば、図海など恐れるに足りん。」
 側近達は皆、頭を下げた。
「陛下の神算、完璧でございます。」
「よし、孫延齢と馬雄には、戦禍を避けて広西へ駐留し、全軍への兵糧供給を確保するよう命じよう。馬宝、お前は兵を率いて蔡敏栄と対峙、これを牽制せよ。」
「承知いたしました。」
 一方、蔡敏栄。彼は呉三桂の実力を知っていたので、図海と協議した。
「呉三桂の部下は剽悍。そして夏国相も馬宝も文武兼備、智勇双全の将軍だ。だから、呉軍を軽視することはできない。まず、相手の出方を探り、こちらからは軽々しく動かない。呉三桂の一挙で、数省がたちまち靡いたのだ。天下は既に鳴動した。この状況で我等が敗戦したら、我が軍は一挙に瓦解する!」
 図海はこの意見に賛同した。そこで、蔡敏栄は岳州を堅固に抑えてここに駐留した。動揺している人心が落ち着いてから反撃に出る方針である。
 対して、馬宝は洞庭湖畔に陣を布き、呉三桂の到着を待った。こうして両軍は暫く睨み合うこととなったのである。

 戦況が活発に動いたのは両広地方である。
 孫延齢と馬雄の確執は既に述べたが、共に呉三桂へ帰順してから、一応は往来もするようになっていた。そこへ呉三桂から訓諭が届いた。これを読んで、孫延齢は大いに喜んだ。
「広西は俺の本拠地だ。」
 さっそく、馬雄と共に広西へ移動すべく、出発前に尚王へ挨拶に行った。
「君達は広西へ移動するのか?」
「ああ、願ったりの命令だ。」
「馬鹿な!そんなことをすれば、天下の人々からそっぽを向かれてしまうぞ!」
「どうして?」
「今は挙兵したばかり。呼応した軍閥も意気に燃えている。この時こそ戦うべきなのだ。それなのに却って湖南に逗留すれば、兵卒の熱は冷めてしまうし、清朝廷には準備時間を与えることになる。これは下策だ。
 それに、孫王も馬将軍も戦功によってその地位まで出世した人間。全くの名将だ。だから先鋒として活躍して貰うべきではないか?越、浙から北上し、本軍と連動しながら進撃すれば清を滅ぼせる。それに対して広西は片田舎。もしも呉王が湖南を制圧すれば、清本土から隔絶し、どん詰まりとなる土地ではないか。その上ここは雲南と隣接している。両方から我が勢力に挟まれ下手に動けない。ましてや湖南を奪取すれば、もうこの土地は清にとっての死に地だ。放っておけば力つきて降伏する。ここを占領しなくても後難は起こらない。それに加えて広西の大半は帰順して久しい。どうして御身達のような悍将をそんな土地で使うのか?御身達は、もっと有効に使わなければならない駒ではないか。それも今この時に!」
「言われてみればその通り。大王の見識には恐れ入ります。しかし、既に詔を受け取った以上中止もできません。とにかく広西へ赴き、そこから利害を具申し、作戦変更を願いましょう。」
 確かに、帰順した早々に詔を破るわけには行かない。結局、孫延齢は尚之信へ別れを告げて広西へ赴いた。
 考えてみれば確かにこれは下策である。しかし、呉三桂がこのように命じたのには訳があった。彼は、孫延齢と馬雄の投降を偽装工作と疑ったのだ。清朝は、この両名へ広東攻略を命じた。だから敢えて広西へ向かわせ、その命令を受けるか否かで投降の真否を窺おうと考えたのである。だから両名が広西へ向かったと聞き、呉三桂はようやく心を許した。そこで、孫延齢を臨江王に、馬雄を歩軍提督に任命した。
 ところが、この詔を受けて馬雄は腹を立てた。
「俺も孫延齢も同時に帰順したのだ。それなのに、彼奴の爵位は俺の上か。くそっ!こうなると判っていたら帰順などしなかったものを!」
 これを聞いて側近達は大いに慌てた。
「将軍、落ち着いて下さい。地位よりも権限の方が大切ですよ。将軍は提督としてこの地方の軍団を総轄なさるのです。例え孫延齢が王となっても、此処にいる限りは将軍の指揮下にはいるのではありませんか。」
 慰められて、馬雄の不満は幾分和らいだ。ただ、これ以来、孫延齢への伝達には全て令箭(命令を発するときに証拠として使うもの。形は矢に似ている。)を使用してその権限を誇示した。これでは孫延齢は面白くない。二人の確執は再び燃え上がった。
 ある日、孫延齢は馬雄に言った。
「我等は元々不仲だったが、呉将軍が正道に帰られたのを契機に協力して事に当たっている。思えば意外な展開ではないか。」
「もしも君が我が陣を訪ねなければ、今日の日はなかったろうな。」
「だが、将軍が私に会いたいと望んでいたからこそ、私は出向いたのだ。将軍は、我が陣へ出向いても面会できないのではないかと疑っておられたのだろう?そのような意志がないことを示す為には、こちらから出向くしかなかったではないか。」
 聞いて、馬雄は愕然とした。
゛さては、全て尚之信が仕組んでいたのか。こいつの器量が大きかったのではなく、単に騙されていただけ。こいつはやはり、運良く出世した無能者だった。゛
 馬雄は黙っていたが、心中では孫延齢を蔑視した。しかも、その彼の方が爵位が高い。彼の怒りは益々深まり、殺意まで抱いてしまった。

 さて、ここで、孫延齢夫妻について語ろう。
 孫延齢の妻は孔四貞。彼女は定南王孔有徳の娘である。幼い頃、彼女は呉三桂の幕府で育てられた。呉三桂は彼女を気に入り養女とした。その後、孔有徳は息子の孔庭訓共々桂林にて戦死した。この時、清朝廷は殉職した孔有徳の忠誠を大いに嘉し、又、その孔有徳に跡継ぎが亡くなったことを憐れんだ。そこで、残された娘を宮中に引き取ることにしたのである。こうして、彼女は太后の養女となった。
 孔四貞が十六になった時、太后は婿を取ろうと思った。すると、彼女は言った。
「父は、私が生まれた時に婚約者を決めて下さいました。その方以外とは結婚したくありません。」
 その相手が孫延齢だったのだ。
 太后は承諾し、義娘を孫延齢と娶せた。そして、孔有徳の封国も、彼が統治することとなったのである。ただし、この国を実質的に支配していたのは孔四貞だった。彼女は読書が嫌いだったので、上奏文が来ると幕僚に読ませ、それを聞いて裁断を下した。
 孫延齢は、容姿麗しく音楽に巧みで武芸の達人だった。鍛えられた体は九尺の屏風さえ飛び越えることができた。人と交際する時には協調性が豊かで、人を受け入れる器量の広さは殊に有名だった。そうゆう訳で、朝廷では重鎮達からたいそう可愛がられた。傍から見れば、彼女と結婚できた孫延齢は垂涎の的だっただろう。だが、彼女は非常に傲慢だった。
 孔四貞は才色兼備の才媛であり、しかも太后の娘である。しかも藩府の政治を掌握していたので、夫の存在を軽視していた。だから、孫延齢の日常は不満だらけだった。しかし、相手は太后の義娘である。彼はいつでも不満を抑えて恭謹な態度に徹し、彼女の言葉には唯々諾々と従った。そんな夫に、孔四貞は大喜びだった。だから、彼女は宮中へ里帰りする度に夫の才徳を褒めそやかした。こうして、孫延齢は太后の覚えめでたく、まるで親王のように寵愛されたのである。
 孔四貞は、夫の心に気がつかなかった。いつでも言いなりに動いてくれる夫は、彼女から見れば優柔不断で扱いやすいだけの男である。だから、藩府での決定事項に彼を参与させようなどとは考えたことさえもなかった。孫延齢の不満は日々鬱積して行く。遂には、藩府の実権をいつか奪い取ってやろうと、虎視眈々と狙うようになった。
 さて、康煕五年のことである。孔家では使用人が多くなり出費がかさみ始めた。そこで孔四貞は、広西を統治するだけではなく、経済的にも完全に支配することを朝廷に請願した。これは清の皇族会議に掛けられて可決された。こうして、孫延齢は鎮守広西将軍、上柱国光禄大夫に任命され、定南府の統治を一任されることとなった。これに伴って、孔四貞は一品夫人に封じられた。だが、この処置に彼女はカチンときた。
゛まあ、一品夫人?これじゃ夫のおかげで出世したように思われるじゃない。冗談じゃないわ!それにあいつに統治権が与えられたわけだけど、まさか自分で裁断するつもりじゃないでしょうね?゛
 こうして、夫婦の間に溝が生まれた。
 ここに、戴良臣とゆう男がいた。けっこう機転が利いたので孔四貞は日頃から眼をかけ、いずれ高い地位を与えようと考えていた。孫延齢が広西の本格的な統治に乗り出すに当たって、都統を一名、副都統を二名選出することとなったが、戴良臣はこれに自薦した。のみならず、親戚の王永年まで推薦したのである。孫延齢はこれを断った。すると、戴良臣は孔四貞に頼み込んだ。折しも、彼女は夫を牽制しようと思っていたところだったので、三人の都統、副都統は自分の息の掛かった人間にしたかった。そこで彼等を強引に推薦した。こうして王永年は都統となり、戴良臣と厳朝綱が副都統となった。
 だが、この三人は都統、副都統に任命されると事ごとに専断し、孔四貞や孫延齢の権限を次々と奪っていった。そしていつしか、広西の人々はこの三人組の意向にのみ汲々とし、将軍や一品夫人の事など眼中になくなってしまった。
 ここに及んで、孔四貞は始めて後悔した。そこで夫婦は和解し、夫婦連名で三人組を朝廷へ告発したのである。すると、戴良臣達は、逆に夫妻を弾劾した。そこで朝廷は、督臣の金光祖を広西へ派遣してこの件を調査させた。ところが、この金光祖は厳朝網の親戚だったのだ。彼は三人組に加担して孫延齢に統治能力がないと報告した。だが、朝廷はこの報告に不審を抱き、今度は大臣を調査に向かわせた。この時、三人組は必死だった。彼等はなりふり構わず運動し、とうとう大臣の買収に成功した。こうして、再調査した大臣さえ、孫夫妻を誣告してしまった。孫延齢は、遂に戴良臣謀殺まで考えてしまった。
 丁度この時、呉三桂が造反したのだ。折しも広西の君臣がいがみ合っていたので、その暴発を恐れた朝廷は、孫延齢を広東へ移動させたのである。
 その孫延齢のもとへも呉三桂の書状が届いた。そこで孫延齢は考えた。
゛昔は、女房からいいように操られていた。その後は部下の専横に悩まされ、頼みの朝廷は白黒を分かたない。゛
 目を転じれば、呉三桂の勢力は日に日に拡大している。そして、彼はとうとう呉三桂へ帰順したのである。
 それからすぐに、呉三桂の命令を受けて彼は広西へ帰ってきた。そして、ここで馬雄と仲違いしたのである。孫延齢が殺意を抱いている相手が二人になった。戴良臣と馬雄だ。 ちなみに、この時孔四貞は都へ逃げ帰っていた。
゛俺が敗れたら、自分は与していなかったと朝廷へ言い訳し、俺が勝ったら夫婦の情へ訴えて栄華を守るつもりか。あいつの考えそうなことだが・・・まあ、良いだろう。゛
 彼には女房の打算が手に取るように判ったが、不思議と腹は立たなかった。少なくとも、彼女は陰では彼のことを褒めちぎっていたのだ。この夫婦は、案外そばにいない方が許し合えるものかも知れない。それよりも、彼には絶対に許せない相手が居たのだ。
 さて、呉三桂のおかげで、広西は彼の支配下に入った。こうなると戴良臣達は恐れおののいた。そこで、彼等は慌てて孫延齢へ詫びを入れたのである。孫延齢は大いに喜んだ。
「今は大切な時機だ。いさかいを起こして良い訳がない。過去のことを水に流すとゆうのならそれが上策。だが、これからは俺に絶対服従するのだぞ。」
 使者も大喜びでその旨を三人組に復命した。だが、孫延齢が喜んだのは別の訳があったのだ。
゛奴等が許して貰おうなどと甘いことを考えているのなら、皆殺しにできる。゛
 そうして彼は三人組や彼等に従う十三人の将校達を招き、府中にて盛大な宴会を開いた。
「これからは一致団結し、共に大周の為に戦い大功を建てよう。」
 戴良臣達は孫延齢の本心を知らず、過去を水に流して貰えたと大喜びでやって来た。この時、孫延齢は宴席の陰に二百人の兵卒を潜ませていた。彼等は全て手斧を持ち、宴たけなわを見計らい、乱入した。油断しきっていた三人組やその党類はアッと言う間に惨殺された。この惨劇で脱出できたのは、ただ朱瑞一人だけだった。
 朱瑞は苗族の男で、膂力が人並み外れていた。彼は主人が殺されるのを目の当たりに見たので、心に深く復讐を誓った。しかし、孫延齢を殺そうにも奇策がない。悶々と過ごしているうちに、馬雄が密かに接触してきた。そして孫延齢の暗殺方法を教えてくれたので、朱瑞は天の助けとばかり喜んだのである。
 当の馬雄は、孫延齢に造反の心があると呉三桂に告発した。

゛陛下が義旗を挙げてから、四方は帰順し人々は復明の想いを持ちました。則ち、人々に愛国の心が溢れたのです。臣も孫延齢も、大明の臣子、なんで野蛮人に仕えられましょうか?それ故共に帰順し、今までの罪を贖うべく戦陣を駆け巡っているのです。
 しかし意外にも、孫延齢の帰順は偽りでした。彼は不軌を企んでおります。その証拠にご覧なさい、彼の正室の孔四貞は北京へ逃げ帰っているではありませんか。
 孔四貞は、確かに清の太后の養女であります。しかし、彼が陛下へ帰順した時、彼女は一言も諫めなかったのです。もしも孫延齢の帰順が真実なら、孔四貞は北京政府に受け入れられる筈がありません。
 他にもまだございます。
 王永年、戴良臣、厳朝網の三名はもともと清朝の都統でした。しかし陛下への帰順を強く望んでいたのです。孫延齢も名声高い藩王でしたので、私はこの件を彼に任せました。すると彼は、王永年や十三人の武将達を罠にはめて皆殺しにしてしまったのです。降伏した者を殺せば、それ以後帰順する者が居なくなります。ですから、彼の心は明々白々ではありませんか。
 孫延齢が帰順したのは、清朝の為に我が陣中を攪乱しようという企てに違いありません。早急に手を打たなければ、禍は益々大きくなります。
 臣と孫延齢とは篤い友誼で結ばれていますが、国家の大事にはかえられません。ですから、情を振り切って告発するものであります。どうか陛下、後熟慮をお願いいたします゛

 呉三桂はこの告発文を読むと、早急に夏国相を呼び出した。
「孫延齢の処置だが、卿はどう思うかね?」
 聞かれて夏国相は、呉三桂から渡された告発書にザッと目を通した。
「孫延齢と馬雄は、元来いがみあっておりました。今回手を携えて帰順いたしましたが、それはあくまで尚之信が彼等を引っかけただけです。今回の告発は偽りでしょう。」
「しかし、この証拠は二つとも明白。言い逃れはできまい。それをどうして信じないのだ?」
「孫延齢の方が爵位が上だったので馬雄が怨望していると聞きます。その私憤に振り回されてはいけません。それに、孫延齢はもともと夫婦仲が悪かったのです。妻が清朝から受けた私恩を思い夫を棄てたとゆうのが真相でしょう。どうか孫延齢は寛大に処されて下さい。彼を処罰すれば、今後帰順する者がいなくなります。」
「読みが甘いぞ!戴良臣については知っておる。彼は李本深を頼って帰順を申し込んでいた。李本深が四川へ行き孫延齢が帰ってきたので、改めて彼に帰順を頼んだのだ。この三人を殺したのは清朝への助力。奴の本心は明白だ。今処罰しなければ後々必ず禍となる。」 呉三桂は夏国相の諫言を聞かず孫延齢の処刑を決意し、その旨を呉世賓と馬雄へ伝えた。 この命令を受け取った呉世賓は、直ちに馬雄と協議した。馬雄は大喜びで、直ちに朱瑞を呼び寄せた。この時朱瑞は馬雄の策に従い既に数十人の苗族を集めていたので、彼等はこれを桂林城外へ伏兵としておいた。その上で、孫延齢と軍議をするとの名目で呉世賓が桂林城へ出かけた。孫延齢はその本心を知らず、この機会に馬雄を譏ろうと思い、城外まで出迎えたのである。
 呉世賓は城外にて下馬し、一礼した。孫延齢も答礼しようと下馬したが、その時、朱瑞率いる苗族達が突撃してきた。
「賊徒か!」
 孫延齢はとっさに剣を抜き数人を斬り殺したが、敵は多い。中でも朱瑞は叫びながら猛然と斬りかかった。
「賊徒はお前だ!」
 衆寡敵せず、とうとう孫延齢は惨殺されてしまった。
 呉世賓は孫延齢の首級を挙げると用意の木箱へ入れて馬雄のもとへ送った。その傍ら呉三桂へ首尾を報告し、会わせて朱瑞の帰順を伝えた。呉三桂は大いに喜び、朱瑞を総兵に抜擢した。又、呉世賓については、この功績で臨江王の爵位を与え、立案者の馬雄も安国公兼金吾衛大将軍に抜擢したのである。
 孫延齢の首級を見て、馬雄は小躍りして喜んだ。
「孫延齢!お前はかつて定南王となり、次いで臨江王となった。全く、一世の英雄とも言える。それが今ではいいざまだな。」
 揚々得意の面もちで孫延齢の首級を取り出したが、突然、その首級がカッと両目を見開いた。
「うわっ!」
 馬雄は驚きの余り落馬し、打ち所が悪かったのか、そのまま昏倒してしまった。側にいた兵卒達は慌てて彼を助け起こし自宅へ連れ帰った。
 以後、馬雄は床へついたままになった。薬湯を進めたが効果はない。彼は常に孫延齢の幻に悩まされたのだ。ただ、始めの頃は「物の怪だ」「妖怪だ」と言っていた。心配した家人達は彼の部屋を幾度か変えたが、どこで寝ても孫延齢の怨霊はつきまとった。熟睡している最中、夢で孫延齢から襲われて悲鳴を上げることも屡々だった。家人達は孫延齢がとり殺そうとしていると考え加持祈祷を毎日頼んだが、病状はちっとも変わらなかった。有名な茅山の道士まで連れてきたが、彼も霊魂を掴むことができない。かといって薬も効かず、医者も「奇病」と称して首を捻るばかりだった。
 ある日、馬雄はどうしても動きたくなり、無理して床を離れ下男に助けられながら大堂まで歩いた。すると、その大堂の上に孫延齢が座っていた。馬雄は一声叫んで倒れたが、やがて立ち上がって言った。
「俺は孫延齢だ。俺は長年の恨みから王永年達を殺した。確かにこれは俺の誤りかもしれん。しかし、あの連中は長年に亘って広西を私物化していたので、誅殺されることを恐れてすり寄ってきただけだ。心底帰順したのではない。我妻は俺と反目していたので、俺を棄てて北京へ帰った。あれはただそれだけのことだ。それらを元に俺を反間呼ばわりするとは、言いがかりも甚だしいぞ。
 それより馬雄!お前は一時の嫉妬から、いつでも俺に令箭をよこした。俺は藩王だぞ!それでも国を思えばこそ不満を抑えてきたのだ。しかも、お前はそれでも飽きたらずに俺を罠にはめて殺した!俺は横死したが、お前も必ず道連れにしてやる!」
 言い終えた途端、馬雄は痙攣したように手足を伸ばし、眼、鼻、口、耳の七カ所から流血して息絶えた。
 この事件は、まだ桂林に逗留していた呉世賓の耳にも入った。
「さては、孫延齢の魂が、冤罪を訴えているのではないか?」
 そこで細かく調査したところ、確かにこの二点は怨霊の言う通りだと判明した。しかし、既に孫延齢も馬雄も死んでいる。仕方なく、彼は呉三桂へ事の顛末を報告するに留めた。 その報告書を読んで、呉三桂は溜息をついた。
「夏国相の諫言を聞くべきだった。もう手遅れではあるが、せめて孫延齢の冤罪だけは晴らしておかねば、今後帰順する者がいなくなる。」
 そこで、孫延齢を臨江王へ追封し、呉世賓は改めて靖東王へ封じた。そして、死んだ馬雄の爵位は剥奪したのである。これにて、広西の一件は、ひとまず落着した。

 さて、呉三桂は蔡敏栄を重視していた。既に馬宝を派遣していたが、親征するべきだとも思える。これについて吉凶を占おうと思っていたところ、衡州の山岳廟の亀甲トが霊験あらたかだとゆう噂を聞いた。そこで、彼は諸大臣を率いて山岳廟を詣ろうと考えた。すると、胡国柱が言った。
「既に挙兵したのです。今更占トに頼って何になりますか。矢を弓へつがえた以上、後は射るだけです。吉と出ても一時の気休め、凶と出れば兵卒の士気が阻喪します。吉凶で進退を決めては断じてなりません。今、陛下は正道に立ち返って義を唱えられました。計略に成功失敗があるにしても、ただ勇気を持って突き進むだけです。占トなどしてはいけません。それよりも、大挙して北伐を敢行いたしましょう。それこそ国家の幸いです。」
 呉三桂が返答に詰まっていると、夏国相も言った。
「私も胡国柱と同意見です!古人は亀トなど行っていましたが、そんな迷信は昔の話ですぞ。陛下の今日はただ進むだけ。退いてはなりません。だいたい、亀などは水棲の虫っけら。何も知ってはおりません。そんな物を何で行動の基準に据えるのですか?占トを行うことこそ不吉です。三軍の志気は萎えてしまいます。」
 呉三桂は二人の言葉を正しいとは思った。しかし、天下を平定した後、呉王朝を万年先まで栄えさせることが彼の望みだった。そこで、どうしても占ってみたくてたまらなかったのだ。そこで、二人の言葉に逆らってしまった。
「朕とて占トは信じない。確かにこれは無知な虫っけらに過ぎぬ。ただ、人々がその霊位を噂しているので、見物に行くだけなのだ。」
 こうして、呉三桂は諸大臣を率いて山岳廟へ詣った。
 廟へ着くと、まず神座の前に中国の地図を広げ、恭しく拝礼した。その後、噂の亀を連れてきて、地図の上を歩かせた。亀はノソノソと歩いたが、どうしたことか北の方へは行かず、ただ貴州や雲南の辺りをウロウロするばかりだった。呉三桂は再び祈りを込めて繰り返したが、やはり同様の結果だった。これを見て、呉三桂は顔色を変えた。