王、カク公晋侯に玉馬を賜る。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の荘公の十八年。カク公と晋侯が周王のもとへ朝行した。恵王は、彼等を饗応し、引き出物を渡した。各々玉五対、馬三匹づつだったが、これは礼に背いている。
 王が諸侯へ賜下する時は、官位が同じでなければ、その位に従って、暫時減少するものである。 

  

(東莱博議) 

 財務を預かる官吏が、公庫の財宝を人へ与えた。これは盗賊である。辺境を守る将帥が、領土を他国へ与えた。これは叛徒である。官吏が預かっている財宝は、その官吏の所有物ではないし、将帥が守っている土地は、彼の所有地ではない。自分のものではないのに、勝手な判断で他人へ与えたり、他国へ与えたりする。彼等が非難され、罪に落とされるのは当然である。
 さて、国の為に財務を預かるのが官吏であり、国のために土地を預かるのが辺将である。そして、天の為に名分を預かっているのが君主である。だから、官吏や辺将が財宝や土地を専断して、人(主君)から罪を得るのが当然ならば、君主が名分を専断すれば、当然、天から罪を得るに決まっているではないか。天は、名分を君主へ与えたのではない。これを君主に守らせているだけなのだから。
 広大な領地、大勢の民、屈強な兵卒、象牙犀角金絹の財宝は、これ全て主君のものだ。だが、名分だけは、主君の所有物ではない。

 すると、ある者が尋ねた。
「それでは、『天は、四海九州を全て主君へ与えたにもかかわらず、名分だけを与えなかった』とゆうことになりますが、どうして名分だけを物惜しみしたのでしょうか?」
 それは、名分が、四海九州の依って立つ根元的な物だからだ。これがしっかりしているからこそ、四界の秩序が保たれる。だからこそ、それを知らない人々はこれを軽々しく扱っているが、天は重く見ているのである。 

 周の恵王は、天がこれだけ重んじていることを知らずに、名分を自分の所有物と勘違いし、軽々しく臣下へ与えてしまった。
 カク公と晋侯が来朝した時、恵王は多分こう思ったのだろう。
”公爵と侯爵とは、たった一階級しか違わない。それなのに、両者を差別するなど忍びない。”
 そして、カク公と晋侯とに同数の馬と玉を与え、増減しなかった。
 ああ、彼は知らなかったのだ。天が定めた礼であるから、多い者は多く、少ない物は少なくして、その秩序を乱してはならなかった。天の秩序を借りて私恩を施した。これでどうして天の子として、元元(民)の親になれようか。 

 人の欲望とは、飽くことを知らない。侯が公と同じ礼遇を受けるのならば、公も又、王と同じ立場となることを考えるに決まっているではないか。案の定、恵王が晋侯を公爵の礼で遇してから数十年後、晋の文公が隧(地名)を請うとゆう暴挙に出、王と同じ礼を行おうとした。恵王がその端緒を啓かなければ、どうしてそこまでやっただろうか。
 屋敷を剥げば床へ至り、床を剥げば体へ至る。ある庶民が士の礼を僭したら、やがては大夫を僭することになる。大夫が諸侯の礼を僭したら、やがては天子を僭することになる。だから聖人が、天子の尊厳を全うさせようと思ったら、まず士庶の分から謹ませた。上を守る為には、下々へ対してでさえも名分を慎まさせたのである。ましてや、公候のように貴い者へ対してならば、尚更ではないか。
 儒教の学者達が礼について議論する時は、毫厘寸尺について力争する。恵王の時のように、公と候で馬璧の数を変えるような、生ぬるいものではない。
 天子の席は五重、諸侯の席は三重。ここで争っているのは、僅かに二重である。天子の堂は九尺、諸侯の堂は七尺、僅か二尺を争っている。凡庸な人間からこの違いを見れば、二尺や二重など微々たる違いで、天子も諸侯も代わりがないようにしか見えない。 

 ああ、儒学者というものは、何と迂遠な連中だろうか。例えば、山のようにそびえ立つ堤防を作った時、その頂上の寸尺の高さを争うようなものだ。寸尺が高かろうが低かろうが、元々山のようにそびえ立っている堤防の高さが変わるものではない。
 だが、考えてみよう。もしも洪水が起こり、水の高さが堤防と等しくなった時、寸尺の土地が水没していなかったならば、その寸尺で決壊するかどうかが決まるのだ。人々は、必ずやその寸尺を頼みとなし、百万生霊の命も又、その寸尺にかかる。
 寸尺の土地が洪水を防ぐように、寸尺の礼が僭乱の源を塞ぐのだ。それならば、儒学者が寸尺の礼にこだわるのは迂遠ではない。必然的にそうなってしまうのだ。 

  

(訳者、曰わく) 

 儒学者が礼にこだわることを見ていると、法家が法にこだわることを連想してしまう。帝王の地位を安泰とする為に、儒家は「礼」を用い、法家は「法」を用いたのだろう。