李輔国
 

 乾元元年(758)二月癸卯朔、殿中監李輔国へ太僕卿を兼任させる。輔国は張淑妃と結託して判元帥府行軍司馬となり、その勢力は朝野を傾けた。
 三月戊寅、張淑妃を皇后に立てる。 

  

 張后が興王召(「人/召」)を生んで僅か数年だが、これを世継ぎにしたがった。上は、迷っていて決定できない。くつろいだ折りに考功郎中、知制誥李揆へ言った。
「成王は年長で、功績もある。朕は太子に立てたいが、卿はどう思うか?」
 揆は再拝し、祝賀して言った。
「これは社稷の幸いです。臣は喜びに絶えません。」
 上は喜んで言った。
「朕の想いは決した。」
 庚寅、成王俶を皇太子とする。
 揆は、玄道の玄孫である。 

  

 二年二月壬子、皆既月食が起こった。
 これ以前に、皇后へ「輔聖」の尊号を加えるよう百官が請願していた。上が中書舎人李揆へ問うと、対して言った。
「昔から、皇后に尊号はありませんでした。ただ、韋后だけはありましたが、どうして手本にできましょうか!」
 上は驚いて言った。
「庸人が我を誤らせたか!」
 そんな折りに月食が起こったので、ついに沙汰止みとなった。
 后と李輔国は表裏一体となって禁中で横車を押し、政事に関与した。収賄は日常。上は不愉快だったが、何もしなかった。 

  

 三月、京兆尹李見(「山/見」)を行吏部尚書、中書舎人兼禮部侍郎李揆を中書侍郎とし、戸部侍郎第五gと共に、同平章事とする。
 上は、見へ対する恩寵が最も厚く、見もまた経済を自分の任務と為し、軍国の大事の大半は見が決定した。
 この頃、京師には盗賊が多かったので、李輔国は、羽林軍から精鋭の騎士五百人を選んで巡邏させるよう請うた。すると、李揆は上疏した。
「西漢時代、南北の両軍を牽制させあっていました。ですから周勃は南軍を入手して北軍へ入り、劉氏を安んじたのです。皇朝では南、北牙を設置し、文武に区分して互いに監視させております。今、羽林軍を金吾の代わりに警邏に使ったりしますと、一大事変が起こった時、これをどうやって制圧するのですか!」
 そこで、中止した。
 李輔国は、上が霊武に居た頃は判元帥行軍司馬事として帷幄の側に侍り、詔命の宣伝、四方からの報告、印鑑類の管理、朝夕の軍令などを全て委ねられていた。
 京師に帰ると、禁兵を専掌して、常に内宅に居り、制敕は全て輔国の署名を経てから施行された。宰相や百司の非常の上奏は、皆、輔国が伝言して、返答を貰った。
 常に銀台門にて天下の事を決済し、事の大小に関わらず輔国の言うことが制敕となって外部へ伝達、施行され、上へは事後報告された。又、察事数十人を設置し、人々の間の些細なことを密告させ、即座に詮議した。
 彼が追索する者を敢えて拒む者など誰もおらず、 御史台、大理寺の重要容疑者でも、まだ断罪されていなければ輔国が銀台へ出向けば釈放された。三司、府、県の裁判では、まず輔国の意向を聞く。罪の軽重は彼の思う儘に制敕が出され、これに逆らう者は居なかった。
 宦官達は、彼の官職さえ口にせず、皆、”五郎”と呼んだ。李揆は山東の甲族だったが、輔国へ対しては子弟の礼を執り、彼を”五父”と呼んだ。
 李見が宰相となると、彼は上の前にて叩頭し、制敕は全て中書から出すよう論じ、輔国の専横の状況を具に述べた。上は感悟して、その正直を賞し、輔国の行ったことの多くを変更し、その察事を廃止させた。
 輔国は、これによって行軍司馬を返上して本館へ帰ることを請うたが、上は許さなかった。
 制が降りる。
「近年、軍国の処理が多く、口述にて敕を作成する事もあったが、これは異常である。今後、諸色は逮捕及び裁決を一切停止せよ。正しい宣とは思えない物は、これから施行するな。中外の諸務は、各々正規の役人へ帰属させる。英武軍の虞候及び六軍諸使、諸司等は、最近競い合い、勝手に動いているようだが、今後は全て御史台、京兆府を経由せよ。処断が不平な時は、つぶさに奏聞せよ。諸々の律令は、十悪、殺人、姦、盗、造偽以外の煩雑な物は一切削除し、中書、門下と法官へ委ねて詳しく聞奏させよ。」
 輔国は、これによって見を忌んだ。
 鳳翔馬坊の押官が強奪をしたので、天興尉謝夷甫が捕らえて、殺した。すると、その妻が冤罪を訴えた。
 李輔国は、もともと飛龍厩出身。敕が降り、監察御史孫螢(本当は、虫ではなく、金)へ詮議させたところ、冤罪ではないと判決した。そこで、御史中丞崔伯陽、刑部侍郎李曄、大理卿権献へ詮議させたが、皆、螢と同じ判決だった。それでもなお承服せず、侍御史の太平の毛若虚へ詮議させた。
 若虚は諂い人だったので、輔国の意向へ叶おうと、夷甫の罪とした。伯陽は怒り、若虚を呼び出して詰責し、弾奏しようとした。
 若虚は先手を打って上の元へ逃げ込み、上は虚を簾の下へ匿った。やがて伯陽がやって来て、「若虚が宦官に諂って判決を曲げた」と言った。上は怒り、伯陽を叱りつけて退出させた。
 伯陽は高要尉へ、献は桂陽尉へ、曄と鳳翔尹厳向は共に嶺下尉へ降格。螢は除名の上、播州へ流された。
 李見は、伯陽等が無罪であると上奏し、大いに責め立てた。上は、彼等を朋党と決めつけた。五月辛巳、見を蜀州刺史へ降格する。
 右散騎常侍韓択木が謁見した時、上は言った。
「李見は専横を欲したので、蜀州へ左遷した。少し寛大すぎたかと思っている。」
 対して言った。
「李見は直言しただけです。専権ではありません。陛下が寛大な処置をなさったのは、聖徳を広めます。」
 若虚は御史中丞に抜擢され、朝廷で威を振るった。 

  

 六月甲申、興王召が卒した。
 張后は、屡々太子を危なくさせたが、太子はいつも恭遜な態度で危機を脱していた。召が卒した時、張后の次男の同(「人/同」)はまだ幼かったので、太子の地位は、遂に定まった。
 八月丁亥、興王召へ恭懿太子と諡する。 

  

 上皇は興慶宮がお気に入りで、蜀から帰ると、そこに住んだ。この時上は夾城に寝起きしており、上皇はまた、屡々大明宮へやって来た。左龍武大将軍陳玄禮、内侍監高力士は長い間上皇を侍衛していた。
 上は又、玉眞公主、如仙媛、内侍王承恩、魏悦及び梨園の弟子を常に上皇の左右に侍らせ、上皇を娯しまさせた。
 上皇は、よく長慶楼へ出向いた。父老達は、上皇が行き過ぎるのを見た時、往々にして平伏し万歳を叫ぶ。すると上皇はいつも、楼下へ酒食を置いて賜下した。また、かつて将軍郭英乂等を楼へ上げて宴を催した。剣南からの上奏者が楼の下を過ぎて拝舞した時、上皇は玉眞公主と如仙媛に、彼等を持てなさせた。
 李輔国は、もともと微賎な出自。俄に出世したとはいえ、上皇の左右は皆、彼を軽視していた。輔国は心中恨み、また、奇功を建てて上の寵を固めようと思い、上へ言った。
「上皇が興慶宮へ住んでいますと、いつも外人と交通しますので、陳玄禮や高力士が陛下に不利を謀るでしょう。今、六軍の将士は全て霊武以来の勲臣ですから、彼等は皆、不安になっています。臣はよくよく諭したのですが、わだかまりを解けません。それで、上聞しないわけにはいかないのです。」
 上は泣いて言った。
「聖皇は慈仁な方だ。どうしてそんなことがあろうか!」
「上皇には、もちろんそのような想いはありませんが、小人達をどうすることができましょうか!陛下は天下の主となったのですから、社稷の大計を為さなければなりません。乱は芽生える前に消すのです。どうして匹夫の孝と同じように振る舞えましょうか!それに、興慶宮は朝廷に近く、低い垣根があるだけです。至尊以外の人が住む場所ではありません。大内は深厳です。ここへ迎え奉れば、あそこよりも格段に勝りますし、小さいが聖聴を惑わす事も防げます。こうしてこそ、上皇は万歳の安泰を享けられ、陛下には三朝の楽しみがあります。何を痛まれることがありましょうか!」
 上は聞かなかった。
 興慶宮には、最初三百匹の馬が居たが、輔国が敕を矯めて取り上げ、わずか十匹だけを遺した。
 上皇は、高力士へ言った。
「我が子は輔国にたぶらかされて、孝を尽くせずに終わりそうだ。」
 輔国は又、上皇を西区内へ迎え入れるよう、六軍の将士へ号哭叩頭して請願させた。だが、上は泣いたけれども応じなかった。輔国は懼れた。やがて、上が不予になった。
 七月丁未、輔国は上の言葉を矯称し、西内で遊ぼうと、上皇を迎えた。そして、睿武門まで来ると、輔国率いる弓兵五百騎が抜刀して道を阻み、奏した。
「興慶宮は狭すぎるので、上皇を大内へ遷居させよとの、皇帝のお言葉です。」
 上皇は驚き、馬から落ちそうになった。
 高力士は言った。
「李輔国、何と無礼をするのか!」
 叱りつけて下馬させる。輔国はやむを得ず、下馬した。そこで力士は、上皇の誥を宣じた。
「諸将士は、各々罪に問わぬ!」
 将士は皆、刃を収めて再拝し、万歳を唱えた。
 力士は又、輔国を叱りつけて自分と共に上皇の轡を執らせ、西内まで侍衞して行かせた。こうして上皇は甘露殿に住むこととなった。留められた侍衞兵は老人数十名だけだった。陳玄禮、高力士及び旧来の宮人は左右に留められなかった。
 上皇は言った。
「興慶宮は、我が王地だ。我は屡々皇帝へ譲ったが、皇帝は受けなかった。今日の移住は、また我の本懐だ。」
 この日、輔国と六軍の大将は素服で上へ謁見し、罪を請うた。上も又諸将へ対しては、労って言った。
「南宮と西内に、どれほどのちがいがあろうか!卿等は小人が惑わすことを恐れ、社稷を安んじる為に、紊乱が大きくなる前に防いだのだ。何の懼れることがあるか!」
 刑部尚書顔眞卿が百僚を率いて上表し、上皇の起居を問うよう請うた。輔国はこれを憎み、上奏して蓬州長史へ左遷した。
 丙辰、高力士を巫州へ、王承恩を播州へ、魏悦を湊州へ流す。陳玄禮は老齢退職となる。如仙媛は帰州へ置き、玉眞公主は宮殿から出して玉眞観へ住ませる。
 上は更に後宮から百余人を選んで西内へ置き、掃除や庭の手入れをさせた。萬安、咸宜の二公主が、衣食の世話をする。四方から献上される珍奇な品々は、まず上皇へ献上した。
 しかし上皇は、毎日鬱々とし、食欲もなく穀物を食べず、次第に病気になっていった。上は、はじめのうちこそ見舞いに行っていたが、やがて上も病気になり、ただ人を派遣して見舞うだけになった。
 その後、上はようやく後悔し、輔国を憎んで誅殺したくなったが、彼が兵権を握っているのを畏れ、躊躇して決断しなかった。
 端午に山人李唐が上へ謁見した。上は幼女を抱き、唐へ言った。
「朕はこれを離しがたい。卿は怪しまないでくれ。」
 対して言った。
「太上皇も陛下に会いたく思われています。それは、陛下が皇女を思う想いと同じです。」 上は涙を零したが、しかし張后を畏れて、なお敢えて上皇を軟禁している西内へ出向かなかった。
 この年の冬至の翌日、上は始めて西内にて上皇へ挨拶した。 

  

 八月癸丑朔、開府儀同三司李輔国へ兵部尚書を加える。
 乙未、輔国が上のもとへ赴く。宰相朝臣は全てこれを見送った。厨房は饌を備え、太常は楽を設ける。
 輔国の驕慢は日々甚だしくなり、宰相となることを求めた。
 上は言った。
「卿の功績なら、どんな官にでもなれる。ただ、朝臣達が望まないのだ。どうしようもない!」
 輔国は、僕射裴免(「日/免」)等へ、自分を推薦するよう風諭した。
 上は、密かに蕭華へ言った。
「輔国が宰相となることを求めた。もしも公卿達の表が来たら、与えざるを得ない。」
 華は退出すると、免へ問うた。すると、免は言った。
「そんなことは絶対にない。我が臂を断たれようとも、宰相になどならせてはいけない!」
 華は入ってこれを言った。上は大いに悦ぶ。
 李輔国は、宰相を求めて得られなかったので、蕭華を怨んだ。
 寶應元年(762)建三月庚午、戸部侍郎元載を京兆尹とした。載は輔国のもとへ出向いて固辞した。輔国は、その真意を知った。壬寅、司農卿陶鋭を京兆尹とする。
 輔国は蕭華の専横を言い立てて、彼の宰相を罷免するよう請うたが、上は許さない。しかし、輔国が固く請うて止まなかったので、遂に、これに従った。元載を華へ代える。
 戊申、華がやめて禮部尚書となった。載を同平章事とした。領度支と転運使は従来通り。 

  

 五月甲寅、神龍殿にて、上皇が崩御した。享年七十八。乙卯、坐を太極殿へ移す。
 上は病気に伏せっていたので、内殿にて哀を発した。群臣は、太極殿にて哀を発する。蕃官は四百余人が、顔を傷つけ耳を切り落とした。
 上は、仲春から寝込んでいたが、上皇が崩御したと聞いて、哀慕して、ますます病状が悪化したので、太子へ監国を命じた。
 高力士は敕に遭って都へ帰っていたが、朗州にて上皇の崩御を聞き、慟哭、血を吐いて卒した。
 当初、張后と李輔国は表裏一体となって政権を専断していたが、晩年になって仲違いした。
 内射生使の三原の程元振は、輔国の派閥だった。
 上の病状が重くなると、后は太子を呼び出して言った。
「李輔国は、長い間禁兵を指揮しており、制も敕も全て彼が出しており、聖皇(玄宗皇帝)を力づくで西内へ移しました。その罪は甚大ですし、彼はまた吾と太子を忌んでいます。今、主上の病気を良いことに、輔国は密かに程元振と乱を作ろうと謀っています。誅さなければいけません。」
 太子は泣いて言った。
「陛下の病気は重いのです。二人とも陛下の勲旧の臣下ではありませんか。何も告げずに誅殺すれば、必ず陛下は驚き、もしかしたら耐えられないかも知れません。」「それならば、太子はとりあえずお帰りなさい。吾はもう少し考えてみます。」
 太子が退出すると、后は越王係を呼んで言った。
「太子は仁弱で、賊臣を誅殺することもできません。汝はできますか?」
「できます。」
 係は内謁者監の段恒俊へ、勇力ある宦官二百余人を選ぶよう命じ、長生殿の後ろで甲を授けた。
 乙丑、后は上の命令として、太子を呼び出した。
 元振はその謀を知ったので、輔国へ密告し、陵霄門へ伏兵を置いてこれを待った。
 太子がやってくると、変事が起こることを告げたが、太子は言った。
「そんなことはあり得ない。主上の症状が重くて我を呼んだのだ。それなのに、我が死を恐れて行かないなど許されないぞ!」
 元振は言った。
「社稷は重大なのです。太子、入ってはいけません。」
 そして、兵を動員して太子を飛龍厩まで護送し、武装兵に守らせた。
 この夜、輔国と元振は、三殿へ兵を動かし、越王係、段恒俊及び知内侍省事朱光輝等百人を捕まえ、牢獄へぶち込んだ。そして、太子の命令と称して后を別殿へ移す。
 この時、上は長生殿にいた。使者は、下殿するよう后へ迫る。併せて、左右数十人を後宮へ幽閉する。宦官や宮人は、皆、驚愕して逃げ散った。
 丁卯、上が崩御する。(享年五十二)
 輔国等は、后と共に係及び?王間(「人/間」)を殺す。
 この日、輔国は始めて太子を引いて、九仙門で素服にて宰相達へ謁見させた。ここで上皇の崩御を告げて、拝哭し、始めて監国の令を行う。
 戊辰、両儀殿にて皇帝の喪を大行し、遺詔を宣する。
 己巳、代宗が即位する。
 李輔国は功を恃んで益々専横になり、上へ明言した。
「大家はただ禁中に坐っていればよいのです。外事は老奴が処分いたします。」
 上は内心不平だったが、禁兵を掌握されていたので、上辺はこれを礼遇した。
 乙亥、輔国を尚父と号し、名前を呼ばない。事は大小となく彼へ諮問し、群臣は出入りの際、まず彼へ詣でた。輔国もまた、それを当然としていた。
 内飛龍厩副使程元振を左監門衞将軍とする。
 壬辰、禮部尚書蕭華を峡州司馬へ降格する。元載が李輔国の意向へ迎合して、罪を誣いたのである。
 飛龍副使程元振は李輔国の実権を奪おうと謀り、少しずつ実権を奪って行くよう、密かに上言した。
 六月己未、輔国の行軍司馬及び兵部尚書を解任したが、他の役職は従来通りだった。彼の代わりに元振を判行軍司馬として、輔国の住居を第の外へ移した。
 ここにおいて、人々は道にて祝賀し合った。
 輔国は始めて懼れ、上表して位を遜った。辛酉、輔国が中書令をやめ、博陸王へ進爵する。輔国は入謝し、憤懣に震えながら言った。
「老奴は君へ仕えることができませんでした。この上は、冥土へ行って先帝に仕えたく存じます!」
 上はなお、慰諭して退出させた。
 九月乙未、程元振に驃騎大将軍兼内侍監を加える。
 左僕射裴免を山陵使とした。だが、朝議にて程元振に逆らったため、丙申、免を施州刺史へ降格した。
 上が東宮にいた頃、李輔国の専横に憤懣が溜まっていた。しかし、即位するに及んで、輔国には張后を殺した功績があったので、顕わに誅殺したくはなかった。
 十月壬戌夜、盗賊が輔国の邸宅へ侵入し、輔国の首と一臂を奪って去る。
 敕が降りて、盗賊を捕らえるよう命じ、中使を輔国の邸宅へ派遣して遺族を慰問し、木で首を刻んで埋葬させ、太傅を贈る。 

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