宋の文帝、恢復を図る(その三)
 
 亡命者 

 ずいぶん前のことだが、魯宗之が魏へ亡命した。(義煕十一年。)その息子の魯軌は襄陽公となって長社を鎮守したが、心はいつも南朝を思っていた。だが、彼は劉康祖と徐湛之の父を殺していたので、(義煕十一年)帰るに帰れなかった。
 やがて、魯軌が死ぬと子息の魯爽が襲爵した。
 魯爽は幼い頃から武芸に秀で、弟の魯秀と共に太武帝の寵愛を受けていた。だが、元嘉二十七年、随王の軍が攻撃してきた時、失策をしでかして、兄弟揃って太武帝から叱責を受けてしまった。(詳細は、「その二」に記載。)彼等は、誅罰を懼れ、その戦役の後、南朝へ亡命した。
 又、二十七年二月の魏軍来寇の際捕虜となった程天祚は、二十八年、脱出して宋へ逃げ戻った。 

  

魏の内乱 

 二十九年、二月。魏の宦官宗愛が、太武帝を弑逆した。(詳細は、北朝「皇太子晃」に記載。)
 三月、文帝は太武帝の崩御を知り、北伐を考えた。すると、魯爽等が、これをそそのかした。
 文帝が群臣へ尋ねると、太子中庶子の何傴が言った。
「淮河近辺の六州は、前回の受けた魏軍の打撃から、まだ立ち直っておりません。ですから今は、軽々しく動く時ではありません。」
 だが、文帝は従わなかった。何傴は、何尚之の子息である。 

  

出陣 

 五月、文帝は詔を下した。
「残虐な虜は凶暴を極め、その弊害は、近年益々激しくなった。しかし、その首魁は我等が手を下すまでもなく、天誅に伏したのである。虐げられた民を助け、穢れを一掃するのは、今こそその好機である。各々、その軍団を率いて東西から呼応せよ。大義に帰り功績を建てた者は、必ずその労に報いよう。」
 撫軍将軍蕭思話は、冀州刺史張永等を配下へ入れて高傲へ派遣した。魯爽、魯秀、程天祚荊州兵四万を率いて許・洛へ出陣した。ヨウ州刺史藏質は配下を率いて潼関へ向かった。
 沈慶之は、北伐を固く諫めたが、文帝は聞かなかった。
 青州刺史劉興祖が上言した。
「河南は飢饉で、略奪する食糧はありません。そして奴等が籠城すれば、一月やそこいらでは抜けないでしょう。ですから、ここを攻撃すれば、大軍を率いているだけに兵糧の輸送だけでも多大な労力を要します。それに、この好機に乗じるのですから、軍事は敏速に行わなければなりません。今、敵主は死んだばかりで、猛暑の最中、敵国内は乱れておりますので、遠征軍など出せないでしょう。以上から愚見を申しますに、直接中山を攻撃し、倒馬関、飛狐関を攻略するべきです。冀州以北は食糧も豊かですし、麦も既に熟しております。こちらから兵糧を運ばなくても、向義の徒が食糧を奉じて駆けつけて来るでしょう。もし、中州が鳴動すれば、黄河以南は自然と潰れ去ってしまいます。どうか、青・冀七千の兵を動員することを、臣へご許可下さいませ。臣は敵の心腹へ直入いたします。もし、この先陣が勝利いたしましたら、張永及び河南の諸軍に一斉に黄河を渡らせましょう。そして、その兵力を背景にして四辺の司牧へ檄文を飛ばせば、大勢の州郡が同心してくれるでしょう。そうなれば、西は太行から、北は軍都までが、我等の支配下です。その上で、彼等新参の者へ厚い恩徳を施せば、天下の万民が我が君を慕うでしょう。この策が成功すれば、四海統一も夢ではありませんし、失敗したとてその痛手は微々たるものです。何とぞ、この申し出をお聞き届け下さい。」
 だが、文帝の頭の中には、たかだか河南の占領くらいしかなかったので、この策には従わなかった。又、文帝は員外散騎侍郎の徐爰を高傲へ派遣して、軍略を授けた。 

  

高傲攻撃 

 七月、張永等は高傲へ到着し、これを包囲した。張永は東道から、済南太守申坦は西道から、揚武司馬崔訓は南道から攻め立てたが、なかなか抜けない。
 八月、魏兵は地下道を通って城を抜け出し、崔訓の陣営や城攻めの道具を焼き払った。
 二日後、今度は東の陣を焼き払った。張永は夜を徹して退却したが、これを諸将へ告げなかったので、士卒はパニックに陥った。魏軍はこれに乗じて攻め立て、大勢の宋兵を殺した。
 これを聞いて、蕭思話は、自ら援軍を率いて高傲へ出向いたが、旬日経っても抜けなかった。
 この時、青・徐州は不作で、食糧が不足していた。とうとう、宋軍は歴城まで撤退した。この敗戦で、崔訓は責任を負わされて誅殺され、張永と申坦は牢屋へぶち込まれた。 

  

魯爽軍進撃 

 魯爽が長社まで進軍すると、魏の守将は城を棄てて逃げた。この時、藏質はこの付近にいたが、兵を擁したまま動かず、ただ、柳元景や薛安都等を派遣しただけだった。
 梁州刺史劉秀之は、司馬の馬汪と左軍中兵参軍蕭道成へ兵を与えて、長安へ向かわせた。蕭道成は、蕭承之の息子である。(蕭道成が、ここに始めて登場した。蕭承之は、元嘉十年、漢中で活躍した。)
 これに対して、魏の冠軍将軍封礼は、豆津から渡河して弘農へ赴いた。司空の高平公児烏干は潼関を守り、平南将軍黎公遼は河内に駐屯した。
 九月、魯爽が、魏の豫州刺史拓跋僕蘭と大索で戦い、大勝利を収めた。魯爽は、そのまま虎牢まで進攻した。だが、ここで高傲での敗北を聞き、柳元景等と共に撤退した。
 蕭道成と馬汪は、魏の援軍が来ていると聞き、仇池まで撤退した。
 己丑、蕭思話が徐州刺史から冀州刺史へ改任され、歴城鎮守を命じられた。 

  

撤退 

 諸将が屡々出陣したがはかばかしい成果が挙がらなかったので、文帝は、この罪を張永等だけに押しつけてはならないと考え、蕭思話へ詔を下した。
「虜は既に勢に乗っているし、これから冬へ向かう。もしも死地から脱出することができるならば、各々その行動をとりなさい。」
 又、江夏王義恭へ手紙を書いた。
「諸将達の力量がこの程度だと、もっと早く気がついていたら、彼等へ白刃を持たせたりしなかったものを!今更悔いても、もう手遅れだ!」
 すると、義恭は、蕭思話を罷免するよう請願し、文帝はこれに従った。 

  

(訳者、曰) 

 この戦いは、ちょっと情けない。僅かこの程度で撤退するのなら、最初から戦争など起こすんじゃない!ただ、この年の七月、皇太子の劭が文帝を巫蠱したとゆう事件が発覚した。(詳細は、「皇太子劭の弑逆」に記載。)実の息子から巫蠱されたのなら、精神的なショックも大きいだろうし、案外、それが文帝の意欲を失わせたのかも知れない。
 文帝は、これで都合三回の北伐を行った。一回目は、まだ魏が北朝を統一する前に、夏と呼応してこれを攻めた。二回目は、魏が北朝を統一した後、その戦争の疲弊に乗じてこれを攻め、三度目は魏の内乱につけ込んで攻撃した。三回とも敗戦したが、これはどう見ても抜擢した将軍が無能だったとしか言えない。この時、宋には有能な将軍が居なかったのか?
 いなかったのだ。
 途中、文帝が嘆いたように、檀道済は既に亡かった。これを誅殺したのは、他ならぬ文帝である。文帝は、檀道済を始めとして、能臣を次々と粛清したとゆう。(ここらへん、いずれ翻訳します。)どれだけ兵力を充実させていても、これでは勝てない。
 ただ、北魏にしても、この戦勝をもとにして一気に宋を滅ぼすには国力が不足していた。その意味で、北伐を行った時期は、あるいは間違っていなかったのかも知れない。
 それにしても、三度目の北伐は、もう少し間を置いて、内乱が激化してから行うべきだったのではないだろうか。後に則天武后は、その戦略で高麗を滅ぼした。やはり彼女はただ者ではなかった。