東莱博議   曹歳(正しくは、歳/刀)社を観るを諫める。

(春秋左氏伝)

 荘公二十三年。魯の荘公が斉へ行き、社を観た。
 これに先だって、曹歳が言った。
「それはいけません。会盟、討伐、朝(国王への挨拶の為、定期的に上京する義務)以外、諸侯は勝手に領地を離れてはならないものです。主君の行動は必ず書き留めなければなりませんが、書き留めたことが正しくなければ、子孫はどう思うでしょうか?」
 しかし、荘公は聞き入れなかったのだ。

 僖公七年。斉の桓公が鄭討伐を考えて、諸侯を集めた。この時、鄭では皇太子の華を派遣したが、彼は桓公へ内応を持ちかけた。桓公はこれに気乗りしたが、管仲が言った。
「いけません。礼と信義で諸侯と対するからこそ、諸侯から慕われるのです。
 諸侯を集めて会盟すれば、その際の徳・刑・礼・義について、どこの国でも書き留めます。その史書に、『この会盟では、親を裏切る極悪人が列席していた。』と記されては、我が君の扱われた同盟が穢されてしまいます。とは申せ、行ったことを記させないのでは、立派な徳義とは申せません。」
 そこで、桓公はこれを断り、華は鄭で罪を受けてしまった。

 それから後、斉に崔杼の事件が起こった。
 斉の崔杼が主君の荘公を殺した。
 この時、斉の太史(史官の長)が「崔杼が荘公を殺した。」と記した。崔杼は激怒して太史官を殺した。すると、太史の弟が、この事件に関して、「崔杼が荘公を殺した。」と記した。崔杼はこれも殺したが、更にその末弟が「崔杼が荘公を殺した。」と記し、とうとう崔杼もこの一文を歴史に残させたのである。
 この時、斉の副首都に住んでいた史官は、太史三兄弟が皆殺しになったと聞き、慌てて首都へ駆けつけた。その時、彼の持っていた竹簡には、「崔杼が荘公を殺した。」と記されてあった。

 

(博議)          

 百人酔っていても一人が醒めていれば、なお、狂騒の歯止めにはなる。例え百礼が廃れようとも、一礼だけでも残っていたなら、残りを類推する縁とはなる。そして、春秋時代、王綱は既に緩み、周の三百六十官は悉く有名無実となっていたが、ただ史官のみが、その職分を失わずにいた。
 斉の社を観たがっている魯の荘公へ対し、曹歳は言った。
「主君の行動は必ず書き留めなければなりませんが、書き留めたことが正しくなければ、子孫はどう思うでしょうか?」
 してみると、この時代には、「君主の行動は、史官が一つ残らず書き留めて後世へ残すのが当然であり、そのことを誰も疑問には思っていなかった。」と考えられる。例え主君に過ちがあったとしても、それを記した史官を罰する等とは考えもしなかったのだろう。これは三代(遠い昔の礼節備わっていた理想的な時代)の遺風に違いない。
 ところが、この後、斉の桓公が鄭の太子華を盟約に参加させようとした時、管仲はこう言った。
「やったことを誤魔化して記録から削除するようでは最上の徳とは言えません。親を裏切る極悪人を盟約に参加させれば我が君の偉業が汚れます。」
 この言葉は正しい。しかし、この言葉を味わってみると、「記録から削除する」とゆう言葉が出て来ている。曹歳の時から僅か数十年後には、風俗が少し変わったことが判る。
 更にその後、斉の戦勝を、晋が周王へ伝えた。すると周王はその使者を私的にねぎらって、「この事件を記録に留めないように。」と頼んだのである。
 管仲の言葉は、ただ単に、「記さないようでは〜」と口にして桓公を諭しただけであって、実際に記録しなかったわけではない。それが、この頃になると周王自らが礼を犯し、しかも記録から削除するように頼んだのである。何と忌憚がなくなったことか!
 しかし、当時の史官達はこの職分を大事に守り通した。上の人々が公議を廃したとは言っても、下にいる官吏達が、正しい態度を貫き通したのである。
 後、斉で崔杼の事件が起こった時、史官は正しい事件を堂々と記し、何人殺されようが、筆を曲げない官吏達が踵を継いでやって来た。彼等を殺しても、筆を奪うことはできない。剣や鉞が目前に迫ろうとも、彼等が筆を握る手は益々強く、一国の支配者たる権力を以てしても、彼等の竹簡の半行でさえ削り取ることができなかった。こうして、君臣の分とゆうものが、天が高く地が低いように、天下に明白となったのだ。これは誰の功績だろうか。

 嗚呼、春秋時代には、周の文王武王の偉業や遺風は消えて無くなり、しかもまだ孔子は現れていない、徳義的な空白の時代だった。しかしながら、この数百年の間に、中国が野蛮人に成り下がったわけではない。これは、史官達が支えてきたおかげである。
 日が没してしまった後、そして日が開ける前。その暗闇の中ではどんな悪行も容易に覆い隠せる。この時間に、蝋燭を灯して明かりを採らなければ、天下の人々は皆盲人になってしまうではないか。だから、春秋時代に史官が公議を司らなければ、即ち相損ない、相虐し、人としての節義や道義は完全になくなってしまっていただろう。そうなってしまえば、孔子と雖もどうすることができただろうか?
 彼等は孔子が出るまでの数百年間、道義を僅かに守り続けて来たのだが、更に考えるなら、彼等の功績はもっと大きい。もしも彼等が権力者に阿り諂っていたなら、その間の歴史的な事実は全て覆い隠され、孔子が生まれた頃には何が真実かさっぱり判らなくなってしまっていただろう。そうなれば、孔子が春秋を作って後世へ規範を示そうとしても、何を典拠にできるのか?
 造父のような名御者も、車が無くては運転できないし、后げい(弓の名人)でも弓がなければ射ることができないし、墨てき(戦争で、守備の名人)でも城がなければ守れない。こう考えるなら、史官の功績は実に大きいものである。