趙・魏、中原を乱す。(太子造反)

 

 感康元年(335年)、九月。石虎は業(「業/里」)へ遷都し、大赦を下した。
 天竺から、僧侶の仏図澄を招いた。

 二年、十一月。石虎は、襄国に太武殿を造った。又、業に東、西の二宮を造る。
 太武殿は、その基礎だけで高さ二丈八尺。縦は六十五歩、横七十五歩。地下には伏室を穿ち、衛士五百人を置いた。瓦には漆を塗り、金箔、銀箔、珠簾、玉壁。その装飾は巧緻を極めた。
 又、顕陽殿の後方に九殿を造り、士民から選び抜いた美女で満たした。珠玉で飾った服を着た美女は、一万人を越えたとゆう。宮人には占星術を教え、弓術に習熟させた。又、女千騎を作って、金銀や綾錦で着飾らせて笛や太鼓を討ち鳴らさせ、気儘に遊び回った。
 この頃、趙では旱害が起こり、金一斤で粟二斗、百姓は傲然としたが、石虎は戦役を止めなず、諸々の労役が並び起こった。
 洛陽には、虞、九龍、銅駝、飛廉とゆう鐘があったが、これを牙門の張彌に命じて業へ運ばせた。その車の為に、洛陽から業まで、広さ四尺、深さ二尺の轍を作った。その途中、鐘の一つが河へ落ちた。石虎は水練達者を三百人募って網に掛け、百頭の牛を使ってこれを引き上げた。そして、その鐘を運ぶ為に、万斗の船を作ったのである。こうして鐘が業へ届くと、石虎は大いに悦び、囚人達の懲役を二年免じ、百官へは穀帛を、民へは爵一級を賜下した。
 又、業の南で河へ石を投じて飛橋を造ろうとした。その費用は数千万億。橋は遂に完成しなかった。役夫は飢えに甚だ苦しみ、工事は中途で終わった。

 三年、正月。太保の?安等文武の官吏五百人が、王宮へ入って皇帝へ即位するよう上奏した。この時、庭に置いてあった灯籠から油壺が落ち、混乱の中で二十人が焼け死んだ。石虎は機嫌を損ね、責任者として成公段を腰斬に処した。
 辛巳、殷や周の制度を根拠に、石虎は「大趙天王」と称した。南郊にて即位して、大赦を下す。
 后の鄭氏を天王皇后、太子の遽を天王皇太子とし、既に王となっている諸子は郡公へ、王となっている宗室は県候へ降格する。百官は、各々昇進した。

 太子の遽は、もともと驍勇だった。石虎は彼を愛しており、群臣へ向かって常々言っていた。
「司馬氏は親子兄弟で争い合い、自滅してしまった。だから、朕がここまで成れたのだ。朕には、阿鉄(遽の字)を殺す理由があると思うか?」
 やがて、遽は驕慢になり、淫乱残忍な本性が露わとなった。彼は、化粧した美姫の首を斬るのが好きだった。切り落とした首は血潮を洗い落とし、盤の上に載せて飾った。賓客が来ればこれを見せ、その女性の体の煮物を共に食べた。
 河間公宣と楽安公韓も、共に石虎から愛されていたが、遽はこれに嫉妬し、兄弟のことを仇敵のように思っていた。
 石虎は、簒奪以来酒と女に溺耽し、感情に駆られたら止まるところを知らなくなった。政治のことは、石遽に任せきり。石遽が石虎へ裁決を求めると、彼は目を剥いて言った。
「そんなつまらん事で、俺を患わせるな!」
 だが、時に石遽が独断で事を行うと、石虎はやはり怒るのだ。
「何で黙って行うのか!」
 それらの怒りで、石遽を鞭打つことも、月に再三起こった。
 石遽は、中庶子の李顔へ私的に言った。
「陛下にはついて行けない。俺は冒頓単于に倣うつもりだ。卿は俺に従うか?」
 李顔は顔を伏せたままで答えなかった。
 七月、石遽は病気と称して政治を執らず、文武の宮臣五百騎と共に、李顔の別宅で酒を飲み交わした。その席で、石遽は李顔達へ言った。
「俺は冀州へ出向いて河間公を殺す。従わない者は斬る!」
 しかし、数里も行かないうちに、彼等は皆、逃げ散ってしまった。李顔が土下座して固く諫めたこともあり、又、石遽自身酔いが回ってしまったので、とうとう中途で引き返した。
 この事件が、母親の鄭氏の耳に入った。彼女は石遽を諭そうと中人を派遣したが、石遽は怒り、その中人を殺した。
 さて、かつて仏図澄は石虎へ言った。
「陛下が屡々東宮へ行かれるのは宜しくありません。」
 今回、石虎は太子の見舞いに行きたかったが、その言葉を思い出して引き返した。その後、石虎は目を剥いて叫んだ。
「我は天下の主となったのに、親子で信じ合うこともできぬのか!」
 そして、信頼している女尚書へ、石遽の様子を観てくるよう命じた。しかし、石遽は、今回も同様のことを言い、刀を鞘のまま抜くと、女尚書を殴りつけた。
 石虎は激怒し、李顔を捕らえて詰問した。李顔がそれまでの経緯を具に語ったので、石虎は李顔はじめ、石遽の側近三十名を処刑した。
 石遽は、東宮に幽閉されたが、暫くして赦され、太武東堂にて謁見した。しかし、この時石遽は一言も謝罪せず、すぐに退出した。石虎は近習に言わせた。
「太子が朝廷へ出たのに、忽ち退去するとゆう法があるか!」
 だが、石遽は返事もしないで去って行った。
 石虎は激怒し、石遽を廃立して庶民へおとした。その夜、石虎は石遽を殺した。妃の張氏も殺し、男女二十六人を石遽と一緒の棺桶に入れて埋めた。そして、連座して誅殺された東宮の臣下や党類は二百余人にものぼった。
 皇太子廃立に伴い、鄭后を廃立して東海太妃と為す。そして、石宣を天王皇太子に立て、母親の杜昭儀を天王皇后とした。

 五年、七月。石虎は皇太子宣を大単于と為し、天子旗を立てた。

 六年、三月。尚書令の?安が死んだ。

 同月、石虎は燕遠征を決定した。
 司・冀・青・徐・幽・へい・ようの七州の民のうち、五人の息子がいれば三人を、四人ならば二人を徴発して、従来の兵卒と合わせて五十万の兵力を得た。一万艘の船を準備して河から海まで補給線を確保。千百万斗の穀物を楽安城まで運び込んだ。
 遼西、北平、漁陽の一万世帯を兌、豫、よう、洛の四州へ移住させた。又、幽州から東は白狼へ至るまで、大いに屯田を興した。
 民からは馬を取り上げ、隠匿する者は腰斬に処した。この処置で、四万匹の馬を得た。
 それらの後、宛陽にて大閲兵を行い、燕攻略の準備は整った。
 これに対して、慕容光(「皇/光」)は麾下の諸将へ言った。
「石虎は楽安城へ兵を集めた。薊城の南北は却って手薄だ。今、奴等の不意を衝いて出撃すれば、撃破できる。」
 十月、燕軍は趙へ攻め込み、薊城へ迫った。幽州刺史の石光は数万の兵力を擁していたが、城を閉じたままで戦わない。燕軍は近辺を荒らし回り、三万世帯を略奪して帰った。
 石虎は、石光を怯懦として、罰した。

 話を内政面へ変えよう。
 同じ六年の三月、石虎は、秦公韓を太尉とし、太子の石宣と共に尚書の奏事を裁定させた。賞や刑については独断を許し、報告の必要もない、と。すると、司徒の申鐘が石虎へ言った。
「賞と刑は、主君の大柄です。他人へ渡してはなりません。そのようなことをすれば、権力が次第に移行しますし、その隙を衝いて反逆も芽生えてしまいます。
 太子の職は、膳を視ること。政治に関与させてはなりません。石遽も、政治を執らせたから、あのような末路を辿ったのではありませんか。
 それに、二人の為政者が権力を二分することも、禍を招くもとになります。ご子息を愛しておられるのなら、導かれて下さい。彼等の欲するままに甘やかしていたのでは、結局、彼等を害することになります。」
 しかし、石虎は聞かなかった。
 中謁者令の申扁は、知恵が回って口が巧く、石虎から寵愛されていた。石宣も、彼とは昵懇だったので、殆どの機密が彼のもとへ集まった。
 さて、石虎は政治を執らなくなったが、石宣も石韓も宴会や狩猟にうつつを抜かす人間だったので、賞罰の実務は、申扁が下すようになっていった。以来、九卿以下の朝臣達は、彼の後塵を拝するようになった。
 燕公の石斌は、北辺の警備を任されていたが、彼も又狩猟が好きだった。それが余りに度が過ぎていたので、征北将軍の張賀度が何度も諫めた。石斌は怒り、張賀度を辱めてしまった。
 石虎はこれを聞き、主書の礼儀へ節を与えて石斌を監視させた。ところが、石斌は礼儀を殺し、張賀度まで殺そうとした。張賀度は防備を厳重にして、これを報告した。
 石虎は、尚書の張離を派遣して、石斌を鞭打三百に処し、罷免して召還した。彼が信任していた十余人を誅殺する。

 八年、十二月。石虎は、業の四十余箇所へ台観を造り、又、洛陽、長安の二宮を造った。この労役には四十余万人が携わった。又、業から襄国まで閣道を造ろうと考え、全国の兵卒の六割方を徴発した。諸州の軍で、甲を造る者は五十余万人、船夫十七万人。溺れたり、虎狼に喰われた者が大勢出た。
 これに加えて、公候、牧宰は競って私利を肥やしたので、百姓の辛苦は多大な物になってしまった。この、民の怨みにつけこんで、貝丘の李弘が造反を思い立った。
 彼は、自分の名前が讖に符合していると吹聴して、大勢の者と結党し、百寮まで設置した。事が露見して誅殺されたが、連座した者は数千家に及んだ。
 石虎は狩猟に耽溺し、朝早くから夜遅くまで遊ぶことも屡々だった。又、お忍びで歩き回り、自ら労役の具合を視察した。
 侍中の葦諛が言った。
「陛下は天下にとって大事な体なのに、軽々しく出歩いておられます。もしも、狂夫に襲われましたら、智恵や勇気がございましても、どう対処できましょうか!
 又、今は労役が頻繁に興り、民は農事に勤しむこともできず、労苦の溜息があらこちらで洩らされています。これは、とても仁聖の忍べる状況ではございません。」
 石虎は、葦諛へ穀帛を賜下した。しかしながら、労役は益々激しく、お忍びの外出も従前通りに行った。

 秦公韓が石虎から寵愛されていたので、太子の石宣は彼を憎んだ。
 五兵尚書を指揮している右僕射の張離は、石宣に取り入ろうと思い、言った。
「今、諸侯の手勢の兵力が多すぎます。これを少しずつ削減しましょう。それでこそ、根本が安泰とゆうものです。」
 そこで、石宣は、張離へ命じて下奏させた。
「秦、燕、義陽、楽平の四公は、幕僚百九十七人、帳下兵二百人を認める。それ以外の公候は、その三分の一を許可する。余った五万人の兵卒は、悉く東宮へ配備する。」
 諸侯は怨み、嫌隙がますます深まった。

 このような折、青州から報告があった。
「済南郡平陵城の北にあった虎の石像が、一晩のうちに、城の東南へ移動しました。又、狼や狐が千匹余りその後に随い、その移動の後が蹊となってしまいました。」
 石虎は喜んだ。
「虎の石像とは朕のことではないか。西北から東南へ移ったとゆうのは、朕が江南を平蕩するとゆう、天の教示だ。明年集結するよう、諸州の兵に勅せよ。朕自ら六帥を率いて天命に従おう!」
 群臣は皆、祝賀した。皇徳頌を作って献上する者は、百七人いた。
 ここで、お触れが出た。
「征士五人毎に、車一乗、牛二頭、米十五斗、絹十匹を供出せよ。不足したら斬る。」
 民は、子供を売ってその費用を捻出し、それでも足りずに道端の樹木で首をくくる者が続出した。

 康帝の建元二年(345年)。正月。石虎は、群臣を太武殿にて饗応した。すると、白鷹が百羽余りも集まってきた。石虎はこれを射つよう命じたが、一羽も獲れなかった。
 この時、諸州の兵卒が百万余り集まっていたが、太史令の趙覧が密かに石虎に言った。
「白鷹が庭に集まったのは、宮室が虚しくなる兆しです。南征には不祥ですぞ。」
 石虎はこれを信じ、宣武観での閲兵を中止した。
 ある時、領軍の王朗が石虎に言った。
「今年は一際寒く、雪も多いのに、皇太子は宮廷の木を伐り、川の水を引き込みました。この工事に数万人が徴発され、怨みの声が満ち満ちております。どうか陛下、このような時機に出游なさることはおやめ下さい。」
 石虎はこれに従った。これを聞いて、皇太子の石宣は怒った。
 四月、火星が房へ入った。そこで、石宣は、趙覧に命じて上言させた。
「房は天王の場所。今、ここへ火星が入りました。これは不祥です。王の姓を持つ貴臣を処刑して、陛下の身代わりとしましょう。」
「誰がいるかな?」
「一番貴いのは王領軍です。」
 石虎は王領軍を惜しみ、次善の策を尋ねた。しかし、趙覧は答えない。そこで、石虎は言った。
「次に貴いのは王波だった。」
 そして、詔を下し、王波の過去の過失を蒸し返して腰斬に処し、彼の四人の子供も殺して屍は川へ投げ込んだ。
 だが、もともと王波は無実だったので、やがて石虎もこれを哀れみ、王波へ司空を追賜し、その孫を侯爵に取り立てた。

 石虎は河の霊昌津に橋を架けようとしたが、のべ五百万人の労役を駆使しても橋はできなかった。石虎は怒り、監督を斬って工事を中止した。

 穆帝の永和元年、正月。石虎は狩猟が好きだったが、年をとると馬に跨ることができなくなった。そこで、猟車千乗を造らせた。
 霊昌津の南から、栄陽の東までを狩り場と決め、この中で禽獣を殺す者は死刑とし、御史に管理させた。御史は、美女や佳い牛馬見つけると、持ち主にこれを献上させた。断る者が居たら、獣を殺したと誣告するのだ。これによって、無実の民が百余人殺された。
 又、石虎は、諸州から二十六万人を徴発して洛陽宮を修復した。百姓から牛二万頭を徴発し、これを朔州の牧官へ配備した。
 女官二十四等を増設する。更に、東宮に十二等、七十余国の公候にはそれぞれ九等の女官を増設し、民間から三万余人の女性を徴発し、これを三等に分けて配分した。
 太子、諸侯が私的に徴発した女性は、更に一万人を越えた。こうなると郡太守県令も女漁りに励み、人妻の強奪が大流行した。自殺したり殺されたりした夫は、全国で三千人を越えた。
 金紫光禄大夫の録明が切に諫めたが、石虎は激怒し、部下に命じて拉致させ、殺した。

 二年、五月。中黄門の厳生は、尚書の朱軌を憎んでいた。丁度長雨が続いていたので、厳生は、「道路を補修しない、又、朝政を誹謗した。」と、朱軌のことを讒言した。
 石虎は、朱軌を捕らえた。
 すると、蒲洪が言った。
「陛下は既に襄国、業宮をお持ちです。その上、長安・洛陽の宮殿を修復しておられますが、何の役に立ちましょう!
 猟車を千乗も造り、数千里も囲って禽獣を養う。人の妻女十余万人を奪って後宮に入れる。聖帝明王が、このような所業を為すのですか!
 その上、道路が整備されないと言って尚書を殺そうとなさっておられる。
 陛下が徳のある政治を修められないから、天が淫雨を降らせ、七旬にも亘って晴れなかったのです。しかも、晴れてから、まだ二日。百万の鬼神を駆使したとしても、これで道路の補修などできたものではありません。ましてや、尚書は人ですぞ!
 このような治政では、四海は後々どうなるでしょうか!
 どうか宮殿の補修を止め、狩り場を廃止し、宮女を民間へ戻し、朱軌を赦免して、諸人の願いに応えて下さい。」
 石虎は悦ばなかったが、蒲洪を罰しなかった。そして、長安と洛陽の労役は中止されたが、朱軌は誅殺された。
 又、これによって「私論朝政の法」を設置して、吏がその上役を、奴隷が主人を告発することを許可した。以来、公卿以下朝臣達は、ただ目配せで伝えあうだけとなり、自由に談話することさえなくなった。

 三年。石虎は十州の領土を占有して金帛をかき集め、外国から献上された珍宝は官庫に山積みとなって挙げて数えることもできなかった。しかも、なお満足を知らず、前代の陵墓を悉く掘り返して金宝を奪取した。
 沙門の呉進が石虎へ言った。
「胡運が衰退し、晋の運勢が復興する兆しがあります。この運気を払う為には、晋の人間をこき使うのが宜しゅうございます。」
 石虎は頷いた。そこで、尚書の張群が、近郡の男女十六万人、車十万乗を徴発し、業の北に長城を築かせた。その長さは数十里にも及んだ。
 申鐘、石璞、趙覧等は、天文の乱れを上訴し、百姓の疲弊を告げた。だが、石虎は激怒した。
「あの長城が完成すれば、その日の内に死んだとて悔いはないわ!」
 そして当てつけるように、張群へ工事を促した。夜になっても、松明の明かりで工事が続く。暴風の時にも強行し、数万人が死んだ。
 郡国からは、蒼麟や白鹿などの珍獣が、前後して届いた。これを瑞兆として、石虎は殿庭にて大朝会を行った。
 九月、山川へ出て福を祈願し、併せて狩猟を行うよう、太子へ命じた。石宣は、天子の旌旗をはためかせながら、十六軍、十八万の大軍で金明門から出発する。石虎は、後宮の陵霄殿に登ってこれを見下ろし、上機嫌だった。
「我が家の親子はこのようである。天が砕け地が裂かれでもしない限り、なんの愁いが有ろうか!朕はただ、子を抱き孫と戯れ、毎日楽しみ暮らすだけだ。」
 この狩猟で、石宣は、まず、軍人に周囲を囲ませた。四面各々百里に連なる。禽獣を駆り立てて、暮れには一つ所に集まった。文武の官吏達は、皆跪いて壁となる。松明の明かりで、辺りは昼のように皎々と照らし出された。やがて、百騎の精鋭に射撃を命じ、狩猟が始まった。石宣は、姫妾と共に輿の中で楽しみ、獲物を殺し尽くして、その日は終わる。
 中には、逃げ出せた獣も居た。その時は、壁となって守っていた者が、爵位を持っていたら、罰として馬を奪い、翌日は一日徒歩で歩かせた。爵位を持っていなければ、百の鞭打ちで罰した。
 このようにして、一行は三州十五郡を巡回した。飢えや凍えで死んだ士卒は、一万人を越え、行き過ぎた後には殆ど何も残らなかった。
 石虎は、石韓にも、後続を命じた。へい州から秦・ようへ回るコースも同様である。
 石宣は、自分と同等に扱われたことで、石韓への怒りがますます募った。
 ここに、宦官の趙生とゆう男は、石宣から寵用されていたが、石韓からは寵用されてなかった。そこで、彼を除くよう石宣へ勧めた。此処に於いて、石宣に、石韓を殺そうとの謀略が始めて芽生えた。

 四年、石虎は石韓を寵愛し、彼を立てようとも考え始めたが、石宣への想いもあり、躊躇していた。
 かつて、石宣が石虎の意向に逆らった時、石虎は言った。
「韓を立てるべきだったわ!」
 これによって、石韓は益々驕慢となった。太尉府に堂を建て、宣光殿と命名した。その梁の長さは九丈。これを見た石宣は激怒し、匠を斬り、梁を持ち去った。自分の名前を汚されたからである。石韓も怒り、今度は十丈の梁を付けた。
 これを聞いて、石宣は寵用している楊杯、牟成、趙生へ言った。
「傲慢な凶豎は、ここまで増長した。どうしてくれようか!お前達が彼奴を殺したら、俺は即座に西宮(石虎の居宮)へ行き、韓の国邑をお前達に分割してやろう。それに、韓が死んだら、主上は必ず喪に臨む。その時こそ、吾は大事を行おう。」
 楊杯等は許諾した。

 八月。ある夜、石韓は僚属達と東明観にて宴会を開き、その夜は仏精舎に宿泊した。楊杯達は忍び梯子を使って潜入し、石韓を殺すと、刀を置いて去った。
 翌朝、石宣がこれを奏上すると、石虎は驚愕の余り気絶し、蘇生するまで暫くかかった。やがて、宮を出てその喪を発表しようとしたが、司空の李農が言った。
「秦公を殺害した犯人が、未だに不明です。賊がまだ京師に居るとしたら、軽々しく出歩くのは宜しくありません。」
 そこで、石虎は厳重な警戒のもと、太武殿で喪を発した。
 石宣は、喪に出かけたが、哭さず、大笑いして去った。
 石虎は、石宣が石韓を殺したのではないかと疑った。そこで、彼を召し出そうとしたが、素直に入ってこないかもしれない。そこで、母親の杜后が悲しみの余り重体だと言って呼び寄せた。石宣が中宮へ入ってくると、これを抑留した。
 ここに、史科とゆう男が、この事件の全貌を知っていた。彼の告発により、石虎は楊杯、牟成を捕らえに行かせたが、二人とも逃げ出していた。しかし、趙生を捕らえることができ、彼を詰問したら、全てを白状した。
 石虎の悲憤は益々激しくなり、石宣を捕らえると彼の顎に穴を受け、鉄の環を取り付けて車へ繋いだ。
 石虎は、石韓を殺した刀を取ると、それにこびりついた血潮を舐め、慟哭した。
 仏図澄は言った。
「宣も韓も、どちらも陛下のご子息ではありませんか。今、韓の為に宣を殺すとしたら、これは禍を重ねることになります。もし、陛下が寛恕で接するならば、福祚が尽きないでしょうが、誅殺なさると、宣の魂は彗星となって業宮を一掃してしまいますぞ。」
 しかし、石虎は従わなかった。
 業の北に柴を積み重ね、その上に柱を立てて、石宣を縛り付けた。そして、石韓の寵臣の赦稚と劉覇に、石宣の髪と舌を引っこ抜かせると、絞殺した。劉覇は、石宣の手足を斬り落とし、眼をほじくって腸を潰した。その後、柴に火を付けて石宣の死体を焼き払った。
 石虎は昭儀以下数千人を従えて中台に登り、この処刑を観ていた。
 火が消えると、その灰は、諸門の道へばらまいた。石宣の妻子九人を殺す。
 石宣の末っ子は僅か数才。石虎はもとより可愛がっていたので、彼を抱いて涕泣し、赦してやろうと思った。しかし、大臣は聞かず、抱きかかえて石虎から取り上げ、殺した。末っ子は石虎の衣を挽いて泣き叫び、遂に帯が断ち切れた。石虎はこれが原因で発病した。 又、皇后の杜氏を廃し、その縁者三百人、宦官五十人を殺す。車裂の刑である。死骸は川へ棄てた。東宮の衛士十余万人は、全て涼州との最前線へ飛ばされた。
 さて、この事件が起こる前、趙覧が石虎へ言った。
「宮中に変事が起こります。どうか備えられて下さい。」
 石宣が石韓を殺すに及んで、石虎は、趙覧が全て知っていながら告げなかったのではないかと疑い、誅殺した。

 九月、石虎は立太子について議した。すると、太尉の張挙が言った。
「燕公の斌は武略があり、彭城公の遵には文徳がございます。陛下がいずれかをお選び下さい。」
「うむ。卿の発案は、我が意を得て居る。」
 すると、戎昭将軍の張豺が言った。
「燕公の母は賤しく、又、燕公には前科がございます。(感康六年、前述。)彭城公の母は、以前子息の件で廃されました。(石遵は、石遽の同母弟)今、再び皇后に立てられましても、しこりは残ると思います。陛下、どうかこの点をご考慮下さい!」
 この張豺は、前趙皇帝の劉曜の娘、安定公主を捕らえた将軍だった。安定公主は美しかったので、石虎は手をつけ、斉公世を生ませた。石虎は既に老病だったので、石世を皇太子に立て、安定公主を皇后にして、彼女とのよしみで政権を握ろうと、張豺は考えたのだ。 彼は言葉を続けた。
「陛下は二度皇太子を立てられましたが、彼等の母は、いずれも下賤の出身。ですから相継いで動乱が起こったのです。今回は、母が貴くて、自身は孝行な子息を選んで太子に立てられるべきでございます。」
「そこまで。卿の言いたいことは判った。太子を決めたぞ。」
 石虎は、再び群臣を集めて東堂で議した。
 石虎は言った。
「吾は何と子供に悪縁があるのだろうか。皆、二十を越えたら、父を殺そうと考えおる!今、世は十歳。これが二十歳になる頃には、吾は既にこの世に居るまい。」
 そして、石世を太子と立てる請願書を公卿達から出させるよう、張挙と李農が決議した。 すると、大司農の曹莫だけが、署名しなかった。石虎は、張豺を使者として、その理由を尋ねさせた。すると、曹莫は頓首して言った。
「天下は重器。幼少の君を立てるのは宜しくありません。ですから、敢えて署名しなかったのです。」
 石虎は言った。
「曹莫は忠臣だな。しかし、朕の想いをしらん。張挙と李農は我が想いを知っている。彼等に説得させよう。」
 こうして石世を立てて皇太子とし、劉昭儀(安定公主)を后とした。

 五年、正月。石虎は皇帝位へ即いた。
 大赦を下し、太寧と改元する。諸子は進爵して王となった。

 さて、東宮の衛士達は、涼州へ向かう途中だったが、この恩赦から外された。よう州刺史の張茂のもとへ、彼等を送るよう勅が届いた。張茂は彼等の馬を奪い、荷車なども自分で牽かせた。
 ところで、石宣は力士を好み、衛士の中にも大勢の力士がおり、彼等は「高力」と呼ばれていた。衛士達の怨嗟が高まったので、高士督の梁犢は造反して東へ帰ろうと思った。それを聞いた途端、全員躍り上がって喜び、彼等は忽ち叛徒と化した。
 梁犢は晋の征東大将軍と自称し、部下を率いて下弁を抜いた。安西将軍の劉寧が安定から駆けつけて攻撃したが、敗北した。
 高力は、皆、力が強く射撃も巧い。一人で十人の働きをする強者揃いである。武器が無くても、民間から斧を掠め、一丈もの柄を取り付けて振り回す。その働きは鬼神の如く、敵は忽ち総崩れとなった。そして守備兵達は皆、叛徒に従った。
 彼等は郡県を攻め落とし、長吏、二千石(地方長官)を殺しながら長躯、東進した。長安へ到着する頃には、その勢力は十万人にも膨れ上がっていた。
 楽平王苞が精鋭を全投入して迎撃したが、敗北した。梁犢は遂に潼関へ出、更に洛陽目指して進撃した。
 石虎は、李農を大都督、行大将軍事に任命し、統衛将軍の張賀度等十万に迎撃させたが、新安にて大敗した。洛陽での戦いにも敗れ、成皋まで退却する。
 梁犢は遂に栄陽、陳留まで荒らし回り、石虎は大いに懼れた。燕王斌を大都督、督中外諸軍事に任命し、統冠将軍姚弋仲、車騎将軍蒲洪等に討伐を命じた。
 命令を受けた姚弋仲は、八千余人を率いて業までやって来て、石虎へ謁見を求めた。石虎の病気だったので、謁見を許可せず、その代わり領軍省へ引き入れ、御食を賜下した。だが、姚弋仲は怒り、食べずに言った。
「主上は、賊徒を攻撃する為に我を召し出したのだ。面談して方略を授けるのが当然だろうが。めしを食いにここまで来たわけではないぞ!それに、主上に会えなければ、その存亡をどうして知れるのだ?」
 そこで、石虎は病をおして謁見した。すると、姚弋仲は石虎を詰って言った。
「子が死んで哀しいのか?なんで病気になったのだ?
 子供は、幼い時に善人を選んでよく教え、導かなければなければならない。それをしないで反逆するような男に育てた。望み通り反逆をしてくれたから、誅殺することができたのだろう。それを何で愁うのだ!
 それに、汝は病気になって久しい。にもかかわらず、幼帝を立てた。汝がもしも癒えなければ、天下は必ず乱れるぞ。これをこそ憂うべきだ。賊徒など憂うことはない!梁犢など、困窮して故郷を想い、相集まって盗賊となっただけではないか。しかも、行く先々で残暴を繰り返す。ここへ来るまでに滅んでしまうわ!このきょうの老いぼれが、汝の為に一撃で殲滅してみせよう!」
 姚弋仲は、狷直な性で、貴人だろうか賤人だろうが、「汝」と呼びかけた。石虎も又、これを責めなかった。
 此処に於いて、石虎は姚弋仲へ使持節、征西大将軍を授け、鎧馬を賜下した。
 姚弋仲は言った。
「汝はこの老いぼれが賊を破るのを見れるかな?」
 鎧を被って庭中で馬に跨ると、すぐに南へ駆け出し、挨拶もしないで退出した。
 姚弋仲は、斌等と合流して、栄陽にて梁犢を撃ち、これを大破した。梁犢の首を斬って帰り、その余党を掃討する。
 石虎は、姚弋仲に、剣履上殿、入朝不趨(殿に上がる時、剣を身につけて良い。朝廷内で小走りに歩かなくて良い。)の特権を与え、西平郡公へ進封した。蒲洪は車騎大将軍、開府儀同三司(幕府を開設できる。)、都督よう・秦州諸軍事、よう州刺史とし、略陽郡公へ進封した。

 

(訳者、曰)

 老病の石虎へ向かって、姚弋仲は、何と辛辣な言葉を吐いたものだろうか。
 弟を造反させる為に、甘やかして育てた「鄭の荘公」のような人物もいる。だが、石虎は、息子に造反させようと思って、彼等を甘やかしたわけではない。あくまで、その育て方を間違ったに過ぎない。
 しかしながら、だからといってその罪が消されるわけでは決してない。二人の太子が相継いで造反した責任は、挙げて石虎の教育にのみあった。
 その意味で、姚弋仲の言葉は間違ってはいない。それどころか、絶対的に正しい。
 世の中に子供を思って嘆く親は多いし、将来親になる人間は、今の子供達や将来生まれる人間達の、大半がそうである。だからこそ、姚弋仲の言葉は貴い。この事件を本に百の論を立てたとて、この一言には勝るまい。
 ただ、一つ付け加えるなら、子供は教育によってのみ育つのではなく、親を観ながらも育つのだ。石虎は数々の暴虐を行い、恬として恥じることを知らなかった。その彼を間近に見ながら育ったら、いくら補弼に人を得たとて、暴虐にならずに済む筈がない。石虎が恭順な息子を望んだところで、どだい無理な相談だったのだ。

 ところで、この話には石虎の暴虐が数多く出ている。勿論、彼は暴君だったのだろうが、一つ不思議なことがある。彼が土木を興し、驕慢になる度に、万単位で人が死んだ。しかし、それと対になってしかるべき、造反や逃散の記述が一つしか記されていないのだ。
 石勒は治世に気を配った名君だったが、その彼にして、大勢の民が祖逖のもとへ逃げ出して行った。(祖逖の北伐、参照。)暴君の石虎ならば、万を越える流民達が、次々と東晋へ逃げ出す筈なのに、その記述が残されていない。
 一体、民は座して死を待つものだろうか?十万単位で若者が徴発され、一万単位で死んで行き、首括る人間は道路にズラリと並んだとゆうのに、一人の陳勝も生まれないものなのだろうか?これは甚だ合点がゆかない。
 石虎の横暴は、確かにあったのだろう。蒲洪の諫言を見ても、それは判る。しかし、それがここに記載されているほど凄惨なものだったのだろうか?
 梁犢が造反した時、趙の兵はあっけなく蹴散らされた。兵卒に戦意がなかったのは、多分苛政のせいだろう。しかし、後趙は、石虎の時代に滅びなかった。その一事を以て、この記述が過大に誇張されていると確信するのである。