代宗皇帝   その3
 
 大暦九年(774)正月壬寅、田神功が京師で卒した。
 庚辰、ベン宋で国境を守っていた兵卒千五百人が、官財を盗んで逃げ散った。田神功が死んだ為である。
 己丑、神功の弟の神玉を知ベン宋留後とした。 

 三月癸巳、郭子儀が入朝して上言した。
「朔方は國の北門ですが、中間の戦士は逃げ散って、一割が残っているばかり。今、吐蕃は河、隴の土地を奪い、キョウ、渾の兵も併せて、その勢力は十倍しています。どうか諸道から精兵を徴発し、四、五万の軍を造ってください。そうすれば、虜を制圧できます。」
 四月甲申、郭子儀が分州へ帰る挨拶をした。辺事を上言した時、涙がポロポロ零れた。 

 原節度使馬リンが入朝した。自分を平章事へ任命するよう上書せよと、将士へ風諭する。
 丙寅、リンを左僕射とする。 

 九月甲辰、郭子儀、李抱玉、馬リン、朱へ、諸道を分割統治して敵の防備をするよう命じた。 

 十月壬申、信王皇(「王/皇」)が卒した。
 乙亥、梁王睿(「王/睿」)が卒した。
 十年正月壬寅、壽王瑁が卒した。
(訳者、曰く)玄宗の子息が、三人立て続けに死にました。宗室の年齢は史書を調べてもなかなか判りませんが、粛宗は玄宗の嫡男で、享年五十二。それが十二年前だから、全員六十四以下だったわけです。始めて王に立てられた年から推測すると、皇など、四十台と思えます。高齢の為とも思えませんし、彼等が謀殺されるほど権勢を持っていたとゆう記述もありません。。単なる偶然でしょうか?それとも、伝染病か何かで、見舞いに行って感染したのでしょうか?
 まあ、現実でも葬式は何故か続くものですが。 

 乙巳、朱が、闕に留まって滔を知幽州、盧龍留後とするよう上表して請願した。これを許す。 

 丙辰、詔が降りる。「諸道に逃亡兵が出ても、制敕なしに募兵してはならない。」 

 二月辛未、皇子述を睦王、ユを林(「林/里」)王、連を恩王、溝(本当はしんにょう)を鹿(「鹿/里」)王、迅を隋王、造を忻王、 を端王、キツを循王、通を恭王、達を原王、逸を雅王とする。 

 丙子、華州刺史李承昭を知昭義留後とする。 

 八月辛巳、郭子儀が分州へ帰った。
 かつて、子儀は州県の官吏を一人叙任すると上奏したが、返事がなかった。僚佐は言い合った。
「令公ほど勲徳高い人が、たかが一人の属吏を上奏したのに従わないとは、宰相は何と礼儀知らずな!」
 子儀はこれを聞いて僚佐へ言った。
「兵乱以来、方鎮の武臣達の多くが跋扈した。彼等が要求すると、朝廷はいつも無理して従っている。これは他でもない、彼等を疑っているのだ。今、子儀が上奏したことは、人主が行ってはならないと判断したら、放置される。これは、子儀を武臣として扱わず、親厚しているのだ。諸君は宿がするべきだ。何を怪しむのか!」
 聞く者は、皆、服した。 

 十月丙寅、貴妃の独孤氏が卒した。貞懿皇后と追諡する。
 上は、貞懿皇后が忘れられず、内殿にて殯したまま、数年間埋葬するに忍びなかった。十三年八月丁酉、ようやく荘陵に葬った。 

 元載と王縉が、上奏した。
「魏州では塩が貴重です。奴等の境内への塩の搬入を禁じ、困らせましょう。」
 しかし、上は許さず、言った。
「承嗣が朕へ叛いたのだ。百姓に何の罪があるか!」 

 十一年八月丙寅、盧龍節度使朱へ同平章事を加える。 

 原節度使馬リンの病気が篤くなったので、行軍司馬段秀実を知節度事として、後事を託した。秀実は警戒を厳重にして非常事態に備えた。
 丙申、リンが卒する。軍中から数千人が哭の為にかけつけ、その嗚咽の声は門を隔てて聞こえたけれども、秀実は彼等を誰一人入れなかった。押牙馬頁(「由/頁」)へ内にて葬儀を治めさせ、李漢惠には、外にて賓客を接待させた。妻妾子孫は堂に、宗族は庭に、将佐は前に置き、牙士卒は営伍にて哭し、百姓は各々その家を守った。町中で立ち話をする者がいれば、捕まえて牢獄へぶち込んだ。哭者を護衛して随従する者以外は、遠方まで送らせなかった。拝哭の儀式では、皆、節度があり、喪者を送る者も皆、定めた場所があり、これに叛く者は軍法で処断した。
 都虞候史延幹、兵馬使崔珍、十将張景華が、喪に乗じて乱を作ろうと計画していたが、秀実はこれを知った。そこで、延幹を宿衞へ入れ、珍は霊台へ移し、景華は外職とした。こうして、一人も殺戮しないで軍府を安寧にした。
 リンの家には、数え切れないほどの財産があった。京師には勲功を賞する為に邸宅が作られていたが、その中堂の造成費は二十万緡、その他の部屋も大体似たり寄ったりだった。しかし、彼の子孫は素行が悪く、それだけの財産をすっかり食いつぶしてしまった。
 段秀実は、翌年九月、節度使となった。彼は軍令は簡約で威恵があり、清廉倹素だった。室には姫妾がおらず、公式の場でなければ酒を飲んだり音楽を聴いたりしなかった。 

 十二月戊戌、昭義節度使李承昭が重病だと上表した。そこで、沢路行軍司馬李抱真へ知磁、ケイ両州留後を兼任させた。
 十二年三月乙卯、兵部尚書、同平章事、鳳翔・懐沢路・秦隴節度使李抱玉が卒した。弟の抱真へ領懐沢路留後を兼任させる。 

 十一年十二月庚戌、淮西節度使李忠臣へ同平章事を加え、合わせて領ベン州刺史としてベン州を治めさせる。 

 十二年三月癸亥、河東行軍司馬鮑防を河東節度使とする。防は襄州の人である。 

 中書侍郎、同平章事元載が専横で、黄門侍郎、同平章事王縉は彼にべったり。二人して貪った。載の妻の王氏及び子の伯和、仲武、縉の弟、妹及び尼や出入りの者へ、皆は争って贈賄した。また、政事は群吏へ委ねたので、栄達を求める士は彼等の子弟や主書の卓英倩等と結託しないと出世しなかった。上は累年我慢を続けていたのだが、載も縉もそれに気が付かなかった。
 上はこれを誅殺したかったのだが、近習が洩らすことを恐れて誰にも言わず、ただ左金吾大将軍呉湊とだけ謀った。湊は上の舅である。
  ある時、”載と縉が夜、道士へ神を祀らせて不軌を図った、”と密告する者が出た。
 庚辰、上は延英殿へ出向き、政事堂にて載と縉を捕らえるよう湊へ命じた。また、仲武と卓英倩等も捕らえて牢獄へぶち込ませた。
 吏部尚書劉晏と御史大夫李涵等へ詮議するよう命じ、容疑者は全て禁中から追い出し、中使を派遣して余罪を詰問した。載も縉も罪に伏す。
 この日、まず禁中にて左衞将軍、知内侍省事董秀を杖で打ち殺し、萬年県にて載へ自殺を命じた。載は、検分者へ言った。
「どうか気持ちよく死なせてください。」
 検分者は言った。
「相公は、汚辱を受けても不思議はないぞ!」
 そして、汚物でその口を塞いで、殺した。
 王縉は、当初は自殺を命じられていたが、劉晏が李涵等へ言った。
「故事は、重大犯は再審した。ましてや大臣だぞ!それに、法には主犯と共犯がある。これをもとに、もう一度判決をやり直そう。」
 涵等は、これに従った。上は、縉を括州刺史への降格とした。
 載の妻の王氏は、忠嗣の娘だった。しかし、連座は子息の伯和、仲武、李能へ及び、皆、誅殺された。
 役人が載の家財を調べたところ、胡椒は八百石もあり、他も似たような物だった。
(訳者、曰く)胡椒が八百石?この頃、胡椒は高価なものだったのだろうか?
 四月壬午、太常卿楊綰を中書侍郎、禮部侍郎常コンを門下侍郎とし、共に同平章事とする。綰の性格は、清倹簡素だったので、この制が下った日は、朝野共に祝賀した。
 郭子儀は宴客と共にこの報告を聞いた。すると、その場の楽員を五分の一へ減らした。京兆尹の黎幹は、従騎を大勢引き連れていたが、その日の内に反省し、十騎にとどめた。中丞崔寛の官舎は、とても広くて贅沢だったが、すぐにこれを毀して撤廃した。
 癸未、吏部侍郎楊炎、諫議大夫韓、包佶、起居舎人韓會等を降格する。彼等は皆、載の一味である。炎は、鳳翔の人間。
 載は、いつも文学の才望ある者を一人、厚く遇していた。これは、いずれ自分の身代わりとする為だった。だから、炎は降格されたのである。
 は滉の弟。會は南陽の人間である。
 上は始め、炎等を全員誅殺したがっていたが、呉湊が言葉を尽くして諫め、降格で済んだ。
 五月庚午、上が中使を派遣して元載の祖父の墓を暴かせた。棺桶を毀して屍を棄て、その家廟を毀し、木主を焼く。
 戊寅、卓英倩等が杖で打ち殺された。
 英倩が権勢を振るうと、弟の英リンは郷里にて横行した。英倩が牢獄へぶち込まれるに及んで、英リンは遂に険に據って造反した。上は、禁兵を派遣して討伐する。
 乙巳、金州刺史孫道平が攻撃して、これを捕らえた。 

 楊綰、常コンは湖州刺史願眞卿を推薦した。上は、即日呼び戻す。
 上は、楊綰を片腕として、腐った政治を改革しようと思っていたが、綰は病気になり、秋、七月己巳、卒した。
 上は非常に痛悼し、群臣へ言った。
「天は、朕へ太平を成し遂げさせたくないのか、何でこんなにも早く朕から楊綰を奪うのだ!」
 八月甲辰、顔眞卿を刑部尚書とした。
 綰、コンはまた、淮南判官の関播も推薦した。抜擢して都官員外郎とする。
 元載、王縉が宰相となると、上は毎日、十人が食べれるほどの内廚御饌を賜下したが、それが慣例となってしまった。
 癸卯、常コンと朱が上言した。
「餐の食費は既に多いのです。どうか賜饌をやめてください。」
 これを許す。
 コンは又、堂封(唐の制度では、毎年堂封として三千六百ケンを賜っていた。)を辞退しようとしたが、同輩が不可としたので、やめた。時人は、コンを譏って言った。
「朝廷が厚い禄を賜うのは、賢者を養う為だ。それだけの能力がないのなら、官位を辞退するべきだ。禄を辞退するのは正しくない。」
(司馬光、曰く。)君子は、他人へ寄食するのを恥じる。コンが禄を辞退したのは、廉恥心を持っていたからだ。地位に固執して禄を貪る者よりも、よほどまともではないか!
 詩にも言う。
「あの君子は、無駄飯を食わない!」
 コンのような者は、まだ深く譏るべきではないぞ! 

 八月癸未、東川節度使鮮于叔明へ李氏の姓を賜下する。 

 話は前後するが、この秋は霖雨(シトシトと降る長雨)だったので、河中府の塩池の多くが駄目になった。
 戸部侍郎判度支韓滉は、塩戸の税金が減免されることを恐れ、丁亥、雨が多かったけれども塩には害がなく、塩はどんどん採れている、と上奏した。
 上は、虚偽ではないかと疑い、諫議大夫の蒋鎮を派遣して実地に検分させた。
 京兆尹黎幹が、秋の霖雨で凶作だと上奏したが、滉は、幹が虚偽を述べたと上奏する。上は御史を派遣して実地検分させた。丁未、御史が帰ってきて報告した。
「およそ三万頃程が損傷を受けています。」
 渭南令劉澡は度支へおもねって、県内の苗に損傷はなかったと称した。御史趙計も澡と同様に上奏した。上は言った。
「霖雨は、薄く広く降るものだ。どうして渭南だけが無傷でいられようか!」
 更に御史朱ゴウに実地検分させた。すると、彼は三千余頃の損傷が出たと報告した。上はしばらく嘆息して、言った。
「県令は人を養う官だ。たとえ損傷が無くても、あったと報告するべきなのに、ここまで不仁になったのか!」
 澡を南浦尉へ、計を豊(「水/豊」)州司徒へ降格する。しかし、滉は不問に処した。
 十一月丙辰、蒋鎮が帰ってきて、上奏した。
「瑞兆です。塩は韓滉の言った通りでした。」
 そして上表して祝賀し、史官へ命じて錫にて嘉名を遺すよう請うた。上はこれに従い、「寶應霊應池」の名を賜った。
 時の人は、これをスキャンダルとした。
(訳者、曰く)後漢時代、人格者として評判だった魯恭が県令をしていた時、郡を挙げて蝗害が起こったのに、魯恭の領内には一匹の虫も出なかった。この時、河南尹の袁安はその報告を疑い、仁恕掾の肥親へ検分に行かせて、それが事実だと確認した。(後漢書「魯恭伝」) 
 この高名なエピソードは、にわかに信じがたい。虫がどうしてそこだけ避けるのだろうか?
 それはともかく、袁安がこの報告を疑った時には、どんな想いだったのか、不思議だった。私などは頭だけで考えて、「検分したらすぐに看破されるような見え見えの嘘を報告する人間が居る訳がない。」と思うのだが、実際にそんな虚偽を報告する人間も実在するのですね。検見役が来たら賄賂でも渡すつもりだったのだろうか?って、趙計はその手にしっかりと乗ったわけです。腐りきった社会とゆうのは、なかなかに奥が深い。 

 十月、永平軍押牙の匡城の劉洽を宋州刺史とする。そして、宋、泗二州も永平軍へ隷属させる。 

 十二月、丙戊、朱が州から京師へ帰った。
 庚子、へ隴右節度使を兼任させ、知河西、沢路行営とする。 

 十三年正月辛酉、白渠の支流の私的な用水路を毀し、田を灌漑するよう敕が降りた。
 昇平公主が二本の用水路を持っていたので、上へ入見して、これを残すよう請う。すると、上は言った。
「吾は民の事を想っているのだ。汝が我が想いを知るならば、率先して行うべきではないか。」
 公主は、即日、それを毀した。 

 六月戊戌、隴右節度使朱が、猫と鼠を献上した。彼等は同じ乳首から乳を吸い、仲良く暮らしている。それを瑞兆としたのだ。
 常コンが百官を率いて祝賀した。だが、中書舎人崔祐甫だけは祝賀せず、言った。
「常に反する者を『妖』と言います。猫は鼠を捕らえるもの。それが奴等の仕事です。それなのに、今、共に乳を飲んでいる。これは『妖』です。何を祝賀するのですか!このような『妖』が出た以上、法吏が奸人を見逃したり、辺将が虜狄の掠奪を防げなかったりすることを戒めてこそ、天意に叶います。」
 上は、これを嘉とした。
 祐甫は、ミャンの子息である。
 秋、七月、祐甫を知吏部選事とした。
 祐甫は、公事にて、屡々常コンと争った。これによって、仲が悪くなった。 

 十二月丙戌、吏部尚書、転運・鹽鐵等使劉晏を左僕射とした。知三銓及び使職は従来通り。 

 郭子儀が入朝した。判官の京兆の杜黄棠へ留守を命じる。
 李懐光は、ひそかに子儀に代わろうとしていたので、詔を矯め、大将の温儒雅等を誅しようと欲した。黄棠は、それが偽りだと察し、懐光を詰問した。懐光は汗を流して罪に服す。
 ここにおいて黄棠は、子儀の命令を矯め、反抗する大将達を皆、外へ出した。こうして軍府は安んじた。 

 上は、江西判官李泌を呼び出して入見させた。そして、元載の事を語り、言った。
「卿と別れて八年。この賊を誅することができた。それも、太子が奴等の陰謀を摘発したおかげだ。そうでなければ、卿と会うことはできなかった。」
 李泌は、対して言った。
「臣は、昔日言ったことがあります。陛下は、群臣の不善を知っても追い出さず、容認が過ぎるのです。ですからこのようになってしまいました。」
「事には十全の準備が必要だ。軽々しくは動けない。」
 そして、上は言った。
「朕は、卿のことを路嗣恭へ直々に恃んだ。だが、嗣恭は載の意向に従って、卿を虔州別駕とするよう上奏したのだ。かつて嗣恭が嶺南の乱を平定した時、瑠璃の円盤を献上した。それは、直径が九寸あり、朕は至宝としていた。だが、載の家が破れた時、嗣恭から送られた直径一尺の瑠璃盤が見つかった。このことを卿と議論しようと、呼び出したのだ。」
「嗣恭の為人は、人へ仕えるのが巧く、権勢を畏れ、吏事には精勤しても大礼を知らない人間です。昔、県令だった頃は有能と評判でした。陛下がまだ彼を知らなかった時に、載は既に目をかけていました。ですから彼の為に力を尽くしたのです。陛下がもしも彼を認めて用いたならば、陛下の為に力を尽くします。虔州別駕は、臣が望んで行ったことで、彼の罪ではありません。それに、嗣恭は過去に大功(嶺南の平定)を建てています。陛下が、どうして瑠璃盤一つの事で罪に落としてよいでしょうか!」
 上は怒りは解け、嗣恭を兵部尚書とした。 

 朔方節度副使張曇は剛直で軽率な人間だった。郭子儀は、彼が武勇を誇り自分を軽視しているので、内心怒りを含んでいた。孔目官呉曜は子儀から抜擢されると、彼のことを悪し様に吹聴した。子儀は怒り、曇が軍衆を煽動したと誣奏して、誅殺した。掌書記の高郢が力争したが、子儀は聞かず、却って彼をイ氏県丞へ降格すると上奏した。
 だが、この事件の後、大勢の僚佐が病気を理由に辞職した。子儀はこれを後悔し、彼等を全員朝廷へ推薦して言った。
「呉曜が我を誤らせたのだ。」
 遂に、これを追い出す。 

 常コンが上へ言った。
「陛下は長い間李泌を用いようと思っておられました。ところで、漢の宣帝は、抜擢したい人間がいたら、まず、その能力を試したものです。ですから陛下、どうか彼を刺史として、彼の長短を広く知らしめてから、結果を見て登庸なさってください。」
 十四年正月壬戌、李泌を豊(「水/豊」)州刺史とした。
(王舟山、曰く)安史の乱の頃、李長源が霊武へやって来た時には、蕭宗が宰相となるよう命じても受けず、庶民のまま皇帝の賓友となった。彼は、その身を潔くして高尚な生き方をすることに疑いを持っていなかった。しかしその後、中央の官僚や地方官として何人もの皇帝に仕え、遂には徳宗時代、宰相となった。この彼の心情は、論者が結論を出していないものである。
 彼を卑下して考える者は、その心中には確固たる信念がなかったと譏る。初めは賓友として自ら尊んでいたのに、最後には実利に流れてしまったのだから。
 逆に、彼を高く評価する者は、蕭宗が国難に乗じて勝手に即位して人倫を乱したことを卑しみ、彼へ仕官して推戴の一味に入ることを恥じたのだと言う。
 だが、これはどちらも間違いだ。
 長源は志深く、遠い将来まで慮る人間だ。初めは高尚ぶっていたのに、結局寵禄に耽ってしまうような人間ではないことは明白である。しかし、蕭宗が勝手に即位したことを、もしも彼が卑しんでいるのなら、どうして危険な戦乱の中をわざわざ霊武まで出向き、帷幄へ参加したのか?既に謀主となったのなら、どうして推戴の罪を逃れられようか。
 長源が宰相を辞退したのは、それが唐室の興亡の一番の要だったからだ。人心の離合や国紀の張緩がここにかかってくるからなのだ。思慮の浅い者には、それを知る能力がない。
 玄宗が、国を滅ぼす寸前まで追い込まれたのは何故か?それはただ、官職のみで功績に報いたからだ。だから禄山は、宰相になれなかったことに怒りを抱き、廷臣を敵視し君父を怨み、その悪心を逞しくした。そして玄宗は出奔し、蕭宗は辺境にて決起して群臣の匡救を待った。この時に当たって、人々は競って高位を望み、飽くことを知らなかった。
 だいたい、ひとたび天下が破れて復興できないほどの禍とゆうものは、いつも、人々が貴寵を希い主君が官爵を軽んじるところから起こるのだ。
 賢不肖の別なく貴寵を希えるのならば、賢者は節義を尽くす気がなくなる。爵位が軽くなってしまったら、それを餌にして功績を挙げさせることなどできないし、主君の威厳もなくなる。そして出世できなかった者は怨むようになる。
 長源は、これこそ乱が発生した原因であることが判っていた。だから玄宗が彼の才覚を知り仕官させようとしたが、受けなかった。彼はその時点で、これに反しても後に功を建てられることを知っていたのだ。
 蕭宗が臣下達の功績に報いようとした時にも、彼は言った。
「官職で功績に報いようとすれば、抜擢した人間に才覚がなければ業務に支障を来しますし、大きな権限を与えると制御できなくなります。爵位を与えて小郡なみの領土に封じるべきです。宰相の名称を軽々しく与えてはなりません。」
 これはただ、共に功績を建て共に辛苦を乗り越えてきた人間達に驕慢傲慢がはびこってゆくことを恐れたのである。
 だから自分自身は、皇太子時代からの友人で、委ねられた権限は大きく、外出する時には轡を並べるような待遇にありながらも、一人の庶民のままでいた。だから人々は、官位を貴しとなさず功績在る人間を貴いと評価し、虚名を栄誉とせずに実績あることを栄誉とするようになった。
 官位を濫発した天寶の末期的政治で出世した人間は、恥じ入って逃げ出した。後漢の更始帝の時は羊のような馬鹿者が関内侯になったし、北斉の高緯の時は鷹や犬のような人間が儀同三司となったが、このような亡国の轍を踏まずに済んだのである。
 ああ、このようにして長源は、非常な劣勢を跳ね返し、潰敗の源を塞ぎ、語らずして人心を引っ張り、危うきを扶け傾いたものを平らにした。我が身自身が手本となる。それこそ収復の功績が建てられた原因である。
 深い。遠い。それに気が付く者は少ない。
 人臣へ対しては、艱難の時に身を粉にして働くのは栄利を貪る為ではないとゆう大節を示し、人主へ対しては、軽々しく賞を賜下し威福を貸すような淫施を戒める。かつて張良が一身を全うする為に知恵を絞ったような処世術とは、レベルが違うのだ。
 その後、彼は幕僚となったが、屈して地方の刺史となることも嫌わず、徳宗の世まで時間を掛けて、始めて四朝の元老とゆう身分で台鼎を祟ぶ職務に就いた。出世するにも手順を踏む。士君子を登用する正道は、このようでなければならないからだ。
 その精神は隠れもなく顕れているのに、人々は読みとれない。そして、彼が詭弁を弄したり本心を隠したりしていると考え、一貫した生き方をしていないと疑っているのだ。
 呉聘君(明の崇仁帝の頃の人間)は、山を降りて仕官したが、予言の秘書を見ようと欲して朝廷から追い出された。彼は、これを読んで恥じないでいられるのか。 

 五月、癸卯、上は始めて発病した。辛酉、皇太子を監国にすると、制した。
 この夕、上は紫宸の内殿にて崩御する。遺詔にて、郭子儀を摂家宰とする。
 癸亥、徳宗が即位した。諒陰の間は礼法を遵守して行動する。
 ある時など、韓王迥を呼び出して一緒に食事をした。すべりひゆ(植物の一種。一年草。)を食べたが、塩も酪も出なかった。
(訳者、曰く)急死です。皇帝崩御の前後について、これ程あっさりと書かれているのは他に類を見ません。せめて、皇帝の人柄や業績について記述があっても良いと思うのですが。簡潔すぎて何か隠されているような気もします。
 まあ、「姑息を旨とした、可も不可もない主君だったからこんなものだ」と言ってしまえばそれまでですが。
 ちなみに享年五十三。当時の医学レベルなら、急死して不思議はないですね。
 新唐書では、
”唐の先祖からの余徳のおかげで、乱を平定して平和を保った。中材の主君である。”と評されています。 

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