魏、柔然を討つ(その二)
 
文成帝の親征 

 武帝の太明二年(458年)、十月。北魏の文成帝は北方を巡回し、柔然討伐を欲した。
 陰山まで来た時、雨雪が激しくなったので、文成帝は引き返そうとした。すると、太尉の尉眷が言った。
「今、大軍を動かして北狄へ武威を見せつけているのです。それなのに、車駕がたちまち引き返す。しかも、ここは都からそんなに遠い場所でもないのです。これでは、奴等は我が国内に内紛が起こったかと、軽く見てしまいます。喩え将士が寒さに震えたとしても、進軍しないわけには参りません。」
 文成帝はこれに従い、車崙山へ屯営した。
 十一月、文成帝は、自ら十万騎を率いて柔然を両度にわたって攻撃した。砂漠も渡り、旌旗は千里も進んだ。柔然の處羅可汗は遠く逃げ去り、別部の烏朱賀頽は数千落を率いて降伏した。
 文成帝は、戦功を石に刻みつけて帰った。 

  

柔然独立 

 八年、七月。處羅可汗が卒して、子息の于成が立った。受羅部眞可汗と号し、永康と改元する。(柔然に関する記述で改元に触れられるのは、これが初めてです。)
 受羅部眞可汗は、魏へ侵入したが、魏の北辺の鎮将が撃退した。 

 明帝の泰始元年(465年)、北魏の文成帝崩御。献文帝が立った。 

 六年、六月。受羅部眞可汗は魏へ侵入した。そこで、献文帝は群臣と協議した。すると、尚書右僕射の南平公目辰が言った。
「もしも親征をなさったなら、京師が危なくなります。守りを固めるのが上策です。虜が敵地へ深入りしても、兵糧が不足して、やがて退却するしかなくなります。そこで追撃を掛ければ、必ず敵を撃破できます。」
 すると、給事中の張白澤が言った。
「身の程知らずの野蛮人が軽々しく王土を侵したのです。もしも親征すれば、敵は必ず崩れ去ります。敵が我が領土で暴れ回るのを、指をくわえて看過するなどとんでもない!それに万乗の尊き御方が、城に閉じこもって守りに専念したら、四夷が威服しませんぞ。」
 献文帝は張白澤の献策を採用した。
 こうして、魏軍は大挙した。京兆王子推は西道から、任城王雲は東道から進んだ。本隊は、汝陰王天賜を前鋒とし、隴西王源賀を後続とし、鎮西将軍呂羅漢等に留守を預けた。
 諸将は献文帝と女水の浜で合流して柔然と戦い、大勝利を収める。勝ちに乗じて追撃し、五万級を斬首し、降伏した者も一万を越え、獲得した器械は数え切れない程だった。
 これ以来、魏では女水を武川と改名した。
 この戦役で、司徒の東安王劉尼は昏酔し、軍陣を整えることができなかったので、その咎で罷免された。 

 十月、柔然は于真(「門/真」)を攻撃した。于真が魏へ救援を求めて来たので、献文帝は公卿と協議した。すると、皆は言った。
「于真は京師から万里も離れています。(「北史」によれば、于真は代から九千八百里離れている。)蠕蠕は野原で掠奪することを習慣としていますが、城攻めは得意ではありません。それでも奴等が城攻めをしたのなら、既に于真は滅んでいる頃。今から兵を派遣しても、とても間に合いません。」
 献文帝は、この回答を使者へ与えると、使者も否定できなかった。その代わり、今回の柔然の侵略がただの略奪で、于真の国が残ったのならば、いずれそのようなことができなくなるように柔然をこてんぱんに叩いてやることを約束した。 

 七年、十月。源賀が漠南へ屯営した。
 それまで、魏は毎年のように柔然へ出兵していた。秋や冬に出陣して、春になったら帰って来るのだ。そこで、源賀は城を築いて屯田する事を提案したが、棄却された。 

訳者、曰く。柔然が魏へ侵略して略奪して行くのは、丁度、匈奴と漢の関係と同じだ。小競り合いは一年に数回起こることもあるが、冗長なだけなので、一々記さない。) 

  

敦煌 

 元徽二年(474年)。柔然が敦煌を攻撃したが、尉多侯が撃退した。
 この報告が届くと、尚書が奏上した。
「敦煌は遠く離れておりますし、西に吐谷渾、北に柔然とゆう強大な勢力に挟まれております。このままでは自立できません。どうかあそこの住民を全員涼州まで撤退させてください。」
 群臣に協議させると、皆、この意見に賛成した。だが、給事中の韓秀一人、反論した。
「敦煌を設置して、既に長い年月が経過しました。強寇が逼ってはおりますが、人々は戦闘に習熟しておりますので、大きな害は起こりません。戍を常設しておけば、確保することができます。そして、我等が敦煌を抑えている限り、吐谷渾と柔然との通行を妨げることができるのです。今、敦煌を棄てて涼まで退却させますと、我が国の防衛戦は一気に千里も後退しますし、二虜は国境を接して同盟を結びやすくなります。そうして涼州で騒動が起これば、関中も枕を高くできません。又、故郷を忘れられない士民が、外寇を招き寄せて本朝へ深い患いを起こすことも考えられます。これらの点をよくよくご考慮下さい。」
 結局、敦煌は廃止されなかった。 

 斉の高帝の建元元年(479年)。南朝と柔然が同盟を結んで魏と戦った。 

 三年、柔然の別帥の他稽帥が、自分の領民を率いて魏へ降伏した。 

 同年九月、柔然の使者が再び斉へ行き、軍事同盟を暖めた。 

  

長城建議 

 武帝の永明二年(484年)、中書監の高閭が上言した。
「北狄は剽悍ですが、愚鈍。禽獣同然です。彼等は野戦は得意ですが、城攻めは苦手。もしも狄の短所で立ち向かって、その長所を殺せば、狄がいくら大勢でも患を成すことはできませんし、来襲しても深く攻め入ることはできません。
 又、狄は野沢に散居し、水や草を逐って生活しています。戦う時には家業ごと進み、逃げる時には畜牧と共に逃げます。資糧を特別に運ばなくても飲食に困らないのです。ですから、歴代の辺患となっていました。北狄へ対して六鎮を設置していますが、奴等は敵の兵力が二倍以上いるときは、戦わずに逃げます。ですから制御しにくいのです。
 どうか、秦・漢の故事に依って、六鎮の北に長城を築かれてください。そして、要害の地を選んで門を設置し、そこには小城を築いて守兵を置きましょう。狄が城を攻撃せず、野を掠めても獲物がなければ、やがて草を食べ尽くして、逃げ出して行くでしょう。
 六鎮は、東西千里に過ぎません。一夫が一月働けば、三歩の城を築けます。人夫に強弱はあるでしょうが、一万人も動員すれば、ものの一ヶ月で長城は完成いたします。その間はつらいかもしれませんが、その後は、長く逸楽を楽しめます。
 長城を築くと、五つの利益があります。
 防御の苦しみが無くなる。これが一です。
 北部の放牧から略奪の患がなくなります。これが二です。
 城に登って敵を観れば、逸を以て労を待てます。これが三です。
 今までは常時の守備でしたが、これからは休むことができます。これが四です。
 今までは毎年兵糧を運んでいましたが、これからはその必要がありません。これが五です。」
 孝文帝は、優詔でこれに答えた。 

  

伏名敦可汗 

 永明三年(485年)。柔然が北魏へ侵入したので、任城王澄が追い払った。任城王澄は、任城王雲の子息である。 

 この歳、柔然の部真可汗が卒し、子息が立った。伏名敦可汗と号する。 

 四年、三月。柔然の使者牟堤が魏へやって来た。
 この頃、敕勒が柔然から造反したので、柔然の伏名敦可汗が自ら親征し、西漠まで追撃した。そこで、魏の左僕射穆亮等は、この隙に柔然を攻撃するよう上請した。すると、中書監の高門が言った。
「秦や漢の時代は、海内が統一されておりました。だから、匈奴の討伐もできたのです。今、南には呉寇が控えております。どうしてこれを捨て置いて、虜庭へ深入りできましょうか!」
 孝文帝は言った。
「『兵は凶器である。だから、聖人はやむを得ない時だけこれを用いる。』と言うではないか。先帝の時、屡々出征したのは、虜を賓礼することができなかったからだ。今、朕は泰平の業を踏襲した。何で無名の出兵を行おうか!」
 そして、牟提を厚く礼遇して帰した。 

 十二月、柔然が、魏の辺境を侵した。 

 伏名敦可汗は暴虐だった。臣下の石洛侯がこれを諫め、かつ、魏と和親するよう勧めたが、伏名敦可汗は怒り、彼の一族を皆殺しとした。これによって民の心は離間した。
 五年、八月、柔然が、魏の辺境を侵したので、魏は尚書の陸叡を都督として柔然を攻撃し、大勝利を収めた。陸叡は、陸麗の子息である。
 話はさかのぼるが、高車の阿伏至羅は十余万の部落を率いており、柔然に従属していた。伏名敦可汗が北魏へ侵入する時、阿伏至羅はこれを諫めたが、伏名敦可汗は聞かなかった。阿伏至羅は怒り、いとこの窮奇と共に部落を率いて西へ移住した。
 前部の西北まで行って、阿伏至羅は自立を宣言し、王を名乗った。国人は、「候婁匍勒」と呼ぶ。これは、夏の言葉で天子を意味する。窮奇は「候倍」と号する。これは太子を意味する言葉である。二人は非常に仲が善く、領土も分割統治した。阿伏至羅は北に、窮奇は南へ住んだ。
 伏名敦可汗はこれを追撃したが、何度も敗北を喫した。遂に、彼は衆人を率いて東へ移住した。 

 六年、十二月。柔然の別帥の叱呂勒が、衆を率いて魏へ降伏した。 

 八年、高車の阿伏至羅と窮奇が、魏へ使者を派遣し、柔然討伐を乞うた。これへ対して、孝文帝は賜下品を与えた。 

 十年、八月。魏は十万の大軍で、三道から柔然へ攻め込み、大磧にて大勝利を収め、帰国した。
 話は前後するが、伏名敦可汗が叔父の那蓋と共に高車の阿伏至羅を攻撃した時、伏名敦可汗の軍は何度も敗北したが、那蓋の軍は何度も勝利していた。そこで、国人は那蓋には天の助けがあると噂した。
 今回の敗北の後、遂に、国人等は伏名敦可汗を殺し、那蓋を立てた。候其伏代庫者可汗と号し、太安と改元する。 

  

長城着工 

 和帝の中興元年(501年)、柔然は魏の辺境を侵した。 

 梁の武帝の天監三年(504年)。柔然が、沃野鎮と懐朔鎮を侵した。魏の宣武帝は、車騎大将軍源懐へ北辺への出陣を命じた。この時、源懐へ方略を授けたが、徴発などは独断権を認めた。
 源懐が雲中へ行くと、柔然は逃げ去った。源懐は、華が夷を制圧するには城郭を築くしかないと考え、恒・代まで帰ると諸鎮の近くの要害の地を視察して回って城を築くべき所を選定した。東西に九つの城を築いて兵糧を備蓄し、これらが呼応して相助けるとゆうのが彼の腹案で、それに関して五十八条の提案をして上表した。
「ここに城を築いて戍を置き、要害に分兵し、農業を勧めて粟を積み、緊急の時に備えます。奴等は遊騎の軍で城攻めは苦手。決して、これらの城の南へは出ないでしょう。こうしておけば、北方に憂いはなくなります。」
 詔が降りてこれに従った。 

  

通和拒否 

 五年、十月。柔然の庫者可汗が卒し、子息が立った。佗汗可汗と号し、始平と改元する。
 戊申、佗汗可汗は魏へ使者を派遣し、和を請うた。宣武帝は使者へ言った。
「蠕蠕の遠い先祖は杜崙。彼は魏の叛臣だ。しかし、我等は寛大にも国交を断たなかった。今、蠕蠕は衰微しているが、我等は日の出の勢い。ただ、江南がまだ片づかないので、北方へは容赦しても良い。しかし、通和は許さぬ。もしも属国としての礼を修め誠を尽くすのならば、討伐しないでおいてやる。」 

  

強制移住 

 献文帝の御代、柔然の一万口が魏へ降伏した。この時、献文帝は彼等の為に高平と薄骨律の二鎮を設置した。だが、彼等の中から逃げる者や造反する者が相継ぎ、太和の末には、千余戸が残るだけとなっていた。
 そこで、太中大夫の王通が請願した。
「彼等を淮北へ移住させて造反できないようにしましょう。」
 そこで、太僕卿の楊椿を持節として彼等の許へ派遣しようとしたが、楊椿は言った。
「過去の例を見ても、遊牧民族と中華の民を同居させた試しはありません。それに、今、新たに降伏してくる者が続出しています。古い民を強制移住させるのを彼等が見たら、不安に駆られてしまいます。それでは、彼等へ造反を勧めるようなものではありませんか。それに、彼等は毛皮を着て肉を食べ、冬の寒さを楽しみます。それに対して淮北は暑く、ジメジメしていますので、彼等はきっと耐えられず、死んで行くでしょう。進んでは我等への帰順の心ををなくさせ、退いては藩衛の利益がない。それに、彼等を中華へ移住させては、後々何をしでかすか判りません。これは良策ではありませんぞ。」
 従わず。遂に、彼等を済州へ移住させ、河沿いに住ませた。
 天監七年、京兆王の乱が起こると、彼等は皆、黄河を渡って京兆王のもとへ赴き、略奪へ走った。それは、楊椿の予見通りだった。 

  

佗汗可汗、死す。 

 同年、佗汗可汗は魏へ再び使者を派遣し、貂の毛皮を送ったが、宣武帝はこれを受け取らず、前回と同様に答えた。 

 ところで、高車の侯倍の窮奇はエンダツ(大月氏の別種。于真の西に建国しており、長安から一万里離れている。)に殺された。彼等は窮奇の子息の俄突を捕らえて去る。窮奇の部落は四散し、柔然や魏へ逃げ込んだ。宣武帝は羽林監の孟威を派遣して、高平鎮を設置した。
 高車王の阿伏至羅は残暴な人間だった。国人は彼を殺し、彼の一族の跋利延を立てた。すると、エンダツが彌俄突を奉じて高車を討伐した。国人は跋利延を殺し、彌俄突を立てた。
 彌俄突は、蒲類海にて佗汗可汗と戦ったが、勝てず、三百里ほど西へ逃げた。佗汗可汗は伊吾北山へ陣取った。
 この頃、高昌王麹嘉が魏へ降伏して、魏国内への移住を求めた。そこで、宣武帝は孟威を龍驤将軍に任命して、彼等を迎えにやらせた。孟威は三千人を率いて涼州を出発したが、この軍が進軍して来るのを見て、佗汗可汗は恐れて逃げ出した。
 佗汗可汗が逃げ出したのを知った彌俄突は追撃を掛け、大勝利を収めた。蒲類海北にて佗汗可汗を殺し、その頭髪を孟威へ送った。また、魏へ使者を派遣して入貢する。宣武帝は、高車へ使者を派遣し、彼等へ厚く賜下した。
 ちなみに高昌王麹嘉が期日までに到着しなかったので、孟威は引き返した。
 柔然では、佗汗可汗の子息の醜奴が立った。豆羅伏跋豆伐可汗と号し、建昌と改元する。 

  

柔然の勃興 

 伏跋可汗は、壮健で戦上手だった。
 十五年、高車を攻撃し、高車王彌俄突を捕らえた。可汗は、彌俄突の足を馬に繋ぎ、引き回して殺した。更に、その頭蓋骨で、酒を飲む器を造った。
 柔然の近隣諸国のうち、その麾下から去っていった国は、全て伏跋可汗に撃滅された。こうして、柔然は再び強盛となった。 

 十六年、十二月。可汗は、魏へ使者を派遣して和を請うた。その使者へは、敵国の礼を用いた。 

 十七年、二月。魏の孝明帝が柔然の使者を謁見し、属国としての礼を備えていないと詰り、漢代に匈奴へ対した故事を使者へ伝えるよう決議した。すると、司農少卿の張倫が上表した。
「太祖は江南対策に忙殺され、結果、豎子(杜崙)を亡命させ、北方に雄略させてしまいました。また、この頃は中国が多難な事もあり、夷狄へは寛大に接していたのです。高祖の時代にも、洛陽へ遷都し、淮や漢で戦争が続くなど、南へばかり目を向けており、柔然を討伐いたしませんでした。そして世宗もこれらの遺志を遵守して、虜の使者が来た時に受け入れて詰らなかったのです。
 今、虜が使者を派遣してきましたが、我等の国政を窺おうとの想いもあるのです。ここで強行に出るのは、祖宗の意向ではありますまい。それよりも、宰臣へ書を持たせて、彼等へ帰順の道を諭し、その後の動向を見るべきでございます。 恩愛と威厳で徐々に慕われることこそ、王者の礼に叶っていると考えます。柔然が近隣を討伐したことで早急に彼等を非難するのは宜しくありません。」
 だが、孝明帝は従わなかった。
 ちなみに張倫は、張白澤の子息である。