’04 明善三十会だより
 頭を巡らせば東に欄々たる高良の霊峰を仰ぎ見、西に滑々たる筑水の清流に…明善応援歌「白旅の歌」の巻頭言にうたわれた高良山、そこから東方に続く屏風山と呼ばれた耳納連山は先日まで新緑が湧くように萌え今にも動き出しそうに躍動的な姿を見せていました。しかし、月日の流れは速いものですね、今ではもう深緑一色に変わってしまい、重く垂れ下がった梅雨空の下で黒く屏風のような姿となって横たわっています。なんとまあ春秋の流れの早いことか。明善三十会の私ども、このうっとうしい梅雨と出会うこと生まれてこの方六十七〜八回を数え、そして、母校明善を卒業して以来50周年を迎えることになりました。皆さんその後お変わりありませんか?昨年三十会報をお届けしたと思ったら、もう一年がたちました。春秋の変わりの早さに本当に驚き、眉を肇め額に縦毅を寄せながら会報の編集に当たっていますでは駄目ですね。編集に当たらせて戴くことを果報と思い嬉嬉としての編集の日々です。ハッハッハツ「笑い声が小さい!」と 天の声が
 ご無礼を致しました。愚痴を届けるのでなく皆さんとお会いできる喜びをお届けするための会報編集でした。幸せ者であります。ハツハツハツ。「それでよし!」天の声 と言うことで、2000年の近畿〜2002年の久留米に続いて、本年は、ずーっと以前から「一度は関東で同窓会を」という多くの皆さんの声に応え、関東明善三十会のお世話でもって関東地区における卒業後50周年の記念すべき三十会同窓会が実現する運びとなりました。
 これまでに、幹事代表の佐藤勝信君と本部と連絡を取り合ってきましたが3月には私が上京して最終的な話し合いを持ちました。そして、私どもの要望も加えていただき、さらに検討をお願いし、下記のような企画となったものです。その折、9名の幹事の皆さんと数時間に亘って検討を致しましたが、幹事に当たられた方々は、それまでに何度となく会合を持たれ、また、下見までされており、驚くほどの綿密な調査と検討を重ねておられたことを知り頭の下がる思いでした。同時に、何としても多くの皆さんの参加を得てこの同窓会を成功をさせたいという思いが沸々と湧いてきたことを思い出します。ありがとうございました。幹事の皆さんに心から感謝し御礼申し上げます。
 このようにして、紆余曲折を経て練りあげられた関東地区での同窓会です、恐らく関東地区での同窓会はこれが最初で最後になるものと思います。三十会の皆さんにはどうか万障繰合わせて戴き何としても参加して戴きますよう心から祈念申し上げ御案内を致します。
 こうしていたところ、昨日、明善三十会西日本支部長の大坪弘明君から電話が入り明善の近畿支部の同窓会があって、「三十会からは13名全員が参加した」との報告がありました。そして「関東での三十会同窓会には、わしら関西からは全員参加するで」と嬉しい言葉と激励を頂戴いたしました。どうか、この意気に応えて関東地区はもとより九州からも全員参加という意気込みでこの卒後50周年の記念すべき同窓会を成功させようではありませんか。どうぞ皆さんお一人お一人の暖かいご協力をお願い申し上げます。
この半世紀の越し方を
 思い起こすと、私たちが明善高を卒業したのは、敗戦から10年経った昭和30年、保守合同が成って、自民党対社会党のいわゆる55年体制が成立し、占領下の政治・社会体制を脱した日本が、ようやく独り立ちの途を歩みはじめた時期でありました。それから半世紀を生きた私たちは、この間、それぞれ社会の一隅で持ち場を得て、懸命にこの日本を支えて来ました。今は引退して悠々自適の生活をおくっている方、今も現役として働いている方、不幸にも体調を崩し養生している方、現在の生き方はいろいろでありましょうが、みなさん一様に感慨深いものがあると思います。
 関東明善三十会では、久留米の本部とも相談して、その総力を結集し、2年がかりで幹事団が下見調査をして、計画を練り上げ、この秋に別掲のような50周年記念同窓会を企画しました。全国に散らばった三十会の会員諸兄姉が一堂に会して、この半世紀の越し方をゆっくり回想することは、たいへん意義深いことと思います。どうぞふるってご参加下さいますようお願いいたします。
                            関東明善三十会 会長 高木俊夫