明善の出典
 旧藩時代明善堂と称した学館は、久留米のほかに肥前佐賀藩の江戸藩邸内の学問稽古所と上総国大多喜藩の学問所と2ヶ所あった。この「明善」は久留米藩では「めいせん」と清んで読むのを習わしとしていたが、その出典には二説がある。
 一つは、「大学」冒頭の
 大学之道、在明明徳、在親民。在止於至善。
(大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親にするに在り。至善に止まるに在り。)といういわゆる三綱領の最初と最後の字を合わせたものとする説である。
 明治10年の西南戦争の際、征討総督有栖川宮熾仁親王は、3月16日、明善堂を大本営と定めて、4日間滞在され、20日に大本営を元の御使者屋(藩の賓客接待所、後の久留米市役所)に移され、同日から5月19日まで明善堂は軍団病院となったが、この久留米御滞在中に、親王は「明善」出典にもとずいて、明と善との中間の句「在親民」を大文字で揮毫され、学校に賜った。学校ではこの書を表装して所蔵していたが、昭和14年7月の火災で焼失した。
 もう一つは、明善堂出身で永らく中学明善校の教師をしていた漢学者江碕済の説で、明善の出典は「孟子」離婁篇(中庸にも同様の句がある)の
 悦親有道。反身不誠不悦於親矣。誠身有道。不明乎善、不誠其身矣。
(親に悦ばるるに道有り。身に反して誠ならずんば、親に悦ばれず。身を誠にするに道有 り。善に明かならずんば、其の身に誠ならず。)
の中の「不明乎善」がそれであるとした。
 これにもとずいて、副島種臣に「明善」の対句として「誠身」の揮毫を求め、これを大額にして明善堂講堂の壁間高くに掲げていた。これも昭和14年7月の本巻の火災で焼失した。
 しかし、明善堂の前身である学館「修道」の名が中庸の首章の
 天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。
(天の命ずる之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ひ、道を修むる之を教と謂ふ)の語から取ったのに対して、その道を修むるには大学の三綱領を守らねばならないとの意を寓して、その上下の一字を取って名づけたとするのが妥当のようである。
(明善校90年史より)