校歌制定由来

 明善中学校々歌

 作詞:金沢 来蔵(第4代校長) 作曲:新 清太郎(久高女教諭)


明治44年(1911)2月11日
紀元節の佳辰を奠卜として、明善校校歌を制定した。
この校歌は歌詞が古風であるが、曲は男性的な軍歌調で親しみやすいために生徒から愛唱され、現在でも戦前の卒業生の同窓会では必ずこれを合唱して昔を懐かしんでいる。


 久留米高等女学校々歌

 作詞:黒岩 玄堂 作曲:田原 美喜子
明治39年(1906)6月20日
黒岩万次郎(玄堂)作詞、田原美喜子選曲になる校歌が出来たので、この日講堂で全校職員生徒に発表し、作詞者黒岩教諭がその釈義講話を行った。以後この校歌は第2次世界大戦後までうたい続けられ、今でも卒業生にとっては、なつかしい母校の象徴として、同窓会等では必ず合唱されている。


 明善高等学校々歌

 作詞:佐藤 春夫 作曲:信時 潔


昭和31年11月29日
男女共学の新しい明善高等学校が発足して既に6年を経過し、校運は隆々として発展の一路にあるので、職員生徒の間に新しい校歌制定の要望が強くなった。31年6月27日に校歌制定委員会が作られ、数回の会議を経て、作詞者に佐藤春夫、作曲者に信時潔がえらばれた。先ず佐藤春夫に作詞を依頼したが、第一次原稿は不満な点が多かったので、訂正を申し込み、11月3日文化の日に佐藤春夫を久留米に迎え、本校や市内を案内して明善校の過去や現在を説明した。かくして、その日歌詞は出来上がった。
その後、早速作曲者に作曲を依頼し、11月25日に作曲も完成した。11月29日の職員会議でこれを了承し、ここに多年の懸案であった新校歌制定されることになった。 

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 白旆の歌(応援歌)

  作詞:藤吉 繁吉


明善校応援歌「白旆の歌」の成立 大正12年(1923年)
作詞者は当時3年生在学中の藤吉繁吉で、筆名を茨木冬吉と言った。
 明治39年(1906)1月2日久留米市細工町5番地に生まれ、大正12年島木赤彦の短歌に傾倒して入門し、この年明善校応援歌「白旆の歌」を作った。16歳の秋であった。曲は旧制第七高等学校の寮歌を当てた。しかし間もなく家庭の事情で明善校を中途退学し、父の家業を助けカバン類の製造販売をやりながら、傍らアララギに入会して短歌の制作を続けた。昭和3年志願して大連警察署特高課に勤務し、生活上の小康を得たが、戦争のために生活は根底から破壊され昭和22年ようやく郷里に引揚げてきた。その後、印刷所に勤めたり、司法書士をしたりしながら、作歌を続けていたが、昭和35年5月5日脳溢血のため急逝した。55歳。久留米市荘島町妙泉寺に葬られた。
 このあした耳納の山々みえずして雪となるらしきそらのいろかも
この海の凍れる上に降り立ちて潮の動きを足裏に感じぬ
                  (「アララギ年刊歌集より」)


 明善高等学校定時制逍遙歌
 作詞:荒巻 龍 作曲:荒巻 長条

昭和32年、30周年を記念するために定時の歌を制定することになり、歌詞は生徒、職員、父兄、その他本校に関係にある人から広く募ることにし、その選定は国語科に委託された。こうして25編の作品が集まり、国語科が3編を選んだ。しかしこの3編はすべて本校教諭の作品であり、その中には選定の責任者の作もあったので、国語科では最後の1編を選定しかね全職員の投票によって選定しようと図ったけれども、職員一同も遠慮した。「それでは校外の権威のある人に選定を願おう。」ということになり、詩人丸山豊氏に依頼した結果が、荒巻長条教諭の作詞が選定された。これが「明善定時逍遙歌」である。作曲は作詞者の弟で、本校の音楽担当の荒巻長条教諭をわずらわし、はからずも兄弟両人により、逍遙歌は完成した。
作詞者は言う、「創立以来、20年間、勤労学徒と苦楽を共にして来た私には、生徒の喜びも悲しみもよくわかる。私は生徒の心になって作詞した。生徒諸君も自分が作った歌として歌ってくれたら、この一編を本校に残す形見として消えた老兵の本懐は、これに過ぎるものはない。」と。
12月1日の記念式典に先立って発表会があり、式典には全校生徒によって合唱されたが、作詞者の荒巻教諭は胃潰瘍が急変して入院し、発表会にも式典にも列席するを能わず、遂に生徒の合唱の声を聞くことも出来なかった。